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Tテモテ 6章1〜2節 2014年6月21日 |
くびきの下にある奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。(1)
この時代、教会にはいろいろな立場にある人々が加わっていきました。非常に身分が高く、また高度の学問的素養をもった人もいましたが、同時に貧しい人々や、奴隷たちの中からも信仰に入る人々もいたのです。もちろん、この時代の奴隷制度は一九世紀のアメリカの奴隷制度とは違っていて、奴隷にもある程度の人権は認められていました。しかし、神の前には自由人も奴隷もない、皆、神に愛され救いをいただくことができるのだという福音のメッセージは彼らにとても喜ばしい知らせとして受け入れられていったに違いありません。教会では奴隷も自由人も皆、同じ主にある兄弟姉妹でした。
しかし、同時に、パウロは奴隷の身分の中にあって信仰をもった人々に、自分の主人を尊敬し、仕えるようにと教えます。その主人が信者であったらなおさらです。確かに身分の差を超えて兄弟姉妹なのですが、それは自分の主人を軽視してよいということではありませんでした。ますます励んで仕えるべきでした。それが主にある兄弟である主人の喜びにつながっていたからです。
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Tテモテ 6章2〜10節 2014年6月22日 |
信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。 (6) テモテが牧会していたエペソ教会はその当時のアジア州の中心的な町にあり、アルテミス女神信仰の強い町にありながら、教会は力強い歩みをしていました。しかし同時に若いテモテには収拾がつかないような多くの問題も抱えていました。教会の中にキリストの健全な言葉に従わず、自分の利益の事ばかり考えて、言葉の争いに明け暮れるような人々もいたのでしょう。ローマ社会は法律が整備され裁判などもローマ法に基づき、法律家・弁護士などが関わって行われるようになっていましたから、なおさら言葉の争いに夢中になる人たちがいたのでしょう。また金銭を愛し、豊かさを求めて生きることが当然のことと考えられていました。
パウロは「金銭を愛することはすべての悪の根」と言いました。金銭にとらわれていると、それは最終的には私たちを多くの苦痛をもって刺し通します。大切なのは「信心があって足ることを知る」ということです。神に与えられているもので満足すること、特に神を信じる者とされているということを何よりも感謝することが大切なのです。
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Tテモテ 6章11〜16節 2014年6月23日 |
信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。(12) パウロはテモテに対して、無益な言葉の争いや、金銭欲にとらわれて生きることがないようにと勧めます。私たちはそのようなことに振り回されている暇はないのです。私たちには戦うべき信仰の戦いがあります。主イエスはこの戦いのために総督ピラトの前でも立派な証しをされました。私たちはこの主イエスの出現を待ち望んでいます。
かつて主は人となってこの世に来られ、十字架で私たちの罪を負って死に、私たちのために贖いのわざを全うされました。しかし、今度再臨されるときには、王の王、主の主、力ある方として、世を裁き、救いを完成するために来られるのです。
その時まで、私たちは与えられたものを守り、また私たちの前にある信仰の戦いを戦っていきます。信仰は時に戦いです。私たちをつまづかせようとするサタンを退け、神に信頼し、神に従って行く決断を積み重ねていかなければならないのです。
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Tテモテ 6章17〜21節 2014年6月24日 |
こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。(19) 財産を持っていることが悪いのではありません。神さまはある人々にまとまった財産をゆだねられます。しかし、それは与えられた財産を自分の思うままに、自分のためだけに使ってよいということではありません。財産が多くあると気持が大きくなって、まるで自分が非常にすぐれた人物でもあるかのように高慢になったり、目に見える金銭に頼って一喜一憂したりするようになりがちです。大切なことは富にではなく、神に望みを置くことです。そして、神がゆだねて下さった富を用いて、よい行いをし、人に分け与えるのです。
しかし、これは単にお金を持っている人たちだけの問題ではありません。お金がないといって貯金通帳の残高が減るととても不安になってしまう私たちもまた神に信頼するのではなく、お金に頼ろうとしているのでしょう。私たちが富んでいても貧しかったとしても、今の歩みにおいて、やがて主の御前に立つ「未来に備えてよい土台を」築き上げるように心掛けていきたいと思います。
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