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ピリピ 4章1〜3節     2014年4月27日

わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。(2〜3)

 手紙もいよいよ終盤に入っていきます。パウロはここでどうしても書かなければならないことをいくつか取り上げます。ここでパウロは二人の女性の名前を書き記します。ユウオデヤとスントケ。おそらくパウロはこの手紙を書き始めたときからこの二人のことをずっと考えていたのでしょう。まさにこのことが言いたいからこの手紙を書いたといってもよいかもしれません。
 彼女たちは「福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たち」でした。しかし、その非常に信仰に富んだ二人が仲違いしていて、そのことが教会の内外でもわかるほどになってしまっている・・・おそらくパウロはこのことをエパフロデトから聞いたのでしょう。
 パウロはこの二人に呼びかけ、また二人の間を取り持ってくれるように「真実な協力者」に頼みます。私たちには和解すべき誰かがいないでしょうか。また私が破れを繕う者として生きるべき二人が近くにいないでしょうか。

ピリピ 4章4〜7節     2014年4月28日

そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。 (7)

 パウロは、「主にあっていつも喜びなさい」と言います。パウロはこの手紙の中で何度もこの勧めを繰り返します。もちろん、私たちの歩みには悲しみや苦難もあります。しかし、パウロは、いつも喜ぶようにと言います。喜ぶことができないような現実の中にあっても、主は私たちを喜ばせてくださるのです。
 そしてパウロは何事も思いわずらわないようにと言います。思いわずらうような状況の中に置かれることがあったら、まず感謝をささげ、次に、自分の求めを神に申しあげるのです。
 もちろん、私たちが神に求める求めが、自動的にかなえられて私たちの思うようになる、ということではないでしょう。私たちの思い通りの世界はおそらく、実は余りにも欠けだらけでゆがんだ世界のはずです。祈り求め、神にゆだねることです。その時、私たちは思いわずらいから解放されて、人知ではとうていはかり知ることのできない神の平安に守られるのです。 

ピリピ 4章8〜9節     2014年4月29日

すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。(8)

 私たちの周りにはさまざまな情報があふれています。私たちの興味をひく様々な情報の中には、人の不幸を楽しんだり、もてあそぶようなものも多くあります。全く建徳的ではなく、私たちの欲望をかき立てるようなものもあります。そこには嘘や欺瞞が満ちていて、また何の役にも立たないようなことどもです。そしてこの種の情報に身をゆだねていると、私たちはやがて、心がさびれていき、また誘惑に陥りやすくなります。まさにピリピやローマの町にもそのような話や情報や物事があふれていたことでしょう。
 ですからパウロは、真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、純真なこと、愛すべきこと、ほまれあること、徳といわれるもの、賞賛に値するもの・・・に心をとめるようにと言うのです。何に心をとめ、目をとめ、耳をとめているかが私たちの現在を決め、また将来をも大きく左右していくのです。

ピリピ 4章10〜13節     2014年4月30日

わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(13)

 私たちはいろいろな境遇の中に置かれることがあります。富むことがあるとともに貧しい中に置かれることもあるでしょう。満ち足りることもあれば飢えることもあるかもしれません。そして、しばしば貧しい中にあって卑屈になってしまうことがあり、また豊かな中に置かれて、誇り高ぶったり、目に見えるものに頼って神を忘れてしまったりします。しかし、パウロは、どんな境遇にあっても足ることを学び、あらゆる境遇に処する秘訣を心得ていると言います。
 どんなに経済的に厳しい中を通ることがあっても、心が貧しくなることなく、人をうらやむのではなく、神に信頼して歩む。またどんなに何をしてもうまくいって大きな賞賛を受けたとしても、主に栄光を帰し、どこまでも謙虚に生きる・・・主は私たちにそのような力強い歩みをさせてくださいます。
 ですから、パウロは自分には何事でもすることができると言います。しかし、それはパウロの人間的な成熟によるものではなく、パウロを強くしてくださるお方の御業だったのです。 

ピリピ 4章14〜23節     2014年5月1日

わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。(19)

 パウロはピリピ教会の人々に献金の勧めをします。パウロは誤解を受けないように注意深く語ります。ピリピ教会はもともとパウロの宣教活動に深い理解を示し、多くのささげものをもってパウロを支えてきた教会です。
 パウロは、自分が贅沢をしたいからとか、また自分のミニストリーを盛んにするためにはもっとお金がいるからということで献金を求めているのではありません。もし、神が本当に何かをしようとされるなら、私たちが献金をしてもしなくても、神にはそのことがおできになります。私たちが献金をしないからお困りになるようなお方ではありません。パウロは献金は「あなたがたの勘定をふやしていく果実」だと言います。そして、また主は献げる者を祝福し、ご自身の栄光の富の中から私たちの一切の必要を満たしてくださいます。私たちも喜びをもって、かなばしいかおりを主の御前にささげたいと思います。


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