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ピリピ 3章1〜11節 2014年4月24日 |
わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。(8) パウロはここで「あの犬ども」と非常に激しい言葉で律法主義的な信仰生活の中にピリピ教会の人々を引きずり込んで惑わそうとする人々に対して警戒するようにと語ります。ここでパウロが警戒するようにと言った人々は、信仰だけでは救われず、救いのためには割礼に象徴されるような律法の行いが不可欠だと語りました。パウロはそのような人々は自分の業を誇る人々、肉を頼みとする者たちだと言います。
そしてパウロは「肉の頼み」なら、自分にはもっとある、と語ります。まさにパウロはかつてはまさにパリサイ人のエリートとして、出世街道を走っていた人物です。彼は自分の事を「律法の義については落ち度のない者」とさえ言い切ることができました。
しかし、今のパウロには昔自慢に思っていたものはすべて「損」「ふん土」にしか過ぎませんでした。主イエスを知ってしまった、その絶大な価値のために、今まで誇りに思っていたものが全部ふっとんでしまったのです。
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ピリピ 3章12〜16節 2014年4月25日 |
わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(12) パウロはここで、自分のことを完成品だとか、一つのレベルに到達しているとかは言いません。かえって彼は自分は追い求めていると言います。そのためには後ろのものを忘れる必要があります。過去の栄光や功績・成功や失敗などから目を離し、からだを伸ばして一事につとめるのです。あれもこれもといろいろなものに振り回されるのではなく、焦点の合った歩みをする。それはまさに人の賞賛ではなく、神の栄誉を求めて走るということでもあります。
しかし、それはまだ天国に行けるかどうか、救われているかどうか決まっていない、それは私たちのがんばり次第だ・・・ということではありません。9節にあったように、私たちは信仰に基づく神からの義をいただいているのです。ですから、パウロは言います。「そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである」。キリストに捕らえられているから、その恵みに応えて生きるのです。
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ピリピ 3章17〜21節 2014年4月26日 |
彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。(21) パウロは、十字架を否定し、十字架に背を向けて歩んでいる人たちが多いと語ります。そしてパウロは彼らのことを思いながら涙を流して語ります。彼らは自分自身を神とし、地上のことだけを考えて生きています。彼らの最後は滅びです。彼らはパウロに敵対し、口汚くののしったかもしれません。しかし、パウロは主イエスが愛してその命をささげてくださったのに、滅びようとしている人々が悲しくてならないのです。そうならないためにも、パウロは「わたしにならうように」と勧めます。
地上のことだけに目を奪われている人たちのことを思いながら、パウロは、「しかし、わたしたちの国籍は天にある」と言います。私たちは天に国籍のある者だから、天に心を向け、主イエスの再臨を待ち望みます。そしてこの再臨の主イエスは、ご自身に起こったのと同じことを、私たちにも行い、私たちのからだを栄光のからだに変えてくださるのです。
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