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ガラテヤ 6章1〜5節     2014年3月6日

互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。(2)

 さらにパウロは具体的な勧めをしていきます。誰かが罪過に陥っていることを知ったらどうするか。肉の人は、一緒になって不義に生きるか、または自分を義としてその人を冷たい視線で見下し、責め立てるかでしょう。
 しかし、霊の人の生き方は違います。まず、柔和な心をもってその人を正します。その人を裁き、切って捨てるのではなく、また黙って何も見なかったかのように見逃すのでもなく、愛をもって間違いを指摘します。それは優越感から出る言葉ではなく、その人を愛し、その人が道を外れて滅んでしまうことを心配しているところから出る言葉です。ですから霊の人は、人が罪過に陥っているとき、自分の姿をもかえりみ、また反省します。決して高ぶったり、人を見下げたりはしません。
 そのようにして、互いに重荷を負い合う交わりが育っていきます。そこには御霊による愛があります。私たちはもうすでに律法からは自由です。しかし、私たちは、「キリストの律法」、恵みと愛の原則の中に生きるのです。

ガラテヤ 6章6〜10節     2014年3月7日

わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。(9) 

 私たちの生きる世界の中では、善を行っても何も報われることなく、悪を行っていた方が得ででもあるかのように思われることがあります。おそらく、ガラテヤ教会の中にも、正しく生きていても何の得にならないと、罪の習慣に逆戻りするような人がいたのでしょう。
 しかし、パウロは言います。自分のまいたものは必ず刈り取ることになる。良いものをまいていたら、必ずいつか良いものを刈り取るし、悪いものをまいたら、しばらくは何か、上手くやって成功しているように見えたとしても、必ず滅びを刈り取ることになるのです。
 ですから、善を行うことに疲れてはいけません。たゆまずに良い種をまき続けることです。パウロは、機会のあるごとに、誰にでも善を行うようにと勧めます。そして特に、信仰の仲間に対して善を行うようにとパウロは言います。私たちは案外、信仰の仲間をないがしろにしてしまうことがあるからです。

ガラテヤ 6章11〜16節     2014年3月8日

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。(14) 

 パウロは多くの場合、口述筆記をしました。しかし、ここでは筆記者から筆をとって直筆で書きます。「こんなに大きい字で」というところも、パウロが目が悪かったのではないかと言われるゆえんです。パウロは自ら筆をとって、自分の言葉で力を込めて書き連ねます。
 異邦人でありながら、恵みによって信仰の救いをいただいたにも関わらず、割礼を受けたいと願う人々には、二つの動機がありました。一つはユダヤ主義的なキリスト者たちや、ローマ政府からの迫害を受けたくない(ユダヤ教はローマの公認宗教の一つでした)と願っているからであり、もう一つは割礼を受けたということを自慢したかったからでした。
 けれどもパウロは大きな字で、「主イエス・キリストの十字架以外には誇りとするものは、断じてあってはならない」と書くのでした。パウロにとっては割礼のあるなしはどうでもよいことでした。大事なことは新しく生まれることだったからです。

ガラテヤ 6章17〜18節     2014年3月9日

だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから。(16) 

 パウロは非常に大きな危機感と戸惑いをもってこの手紙を書きました。しかし、最後は祝福の祈りをもってこの手紙を閉じます。
 パウロ自身は元々、熱心なユダヤ教徒の家庭に生まれ、律法の規定に従って八日目の割礼を受けていました。そして、主イエスに出会うまでは、パウロはそのことを非常に誇りに思っていました。けれども、主イエスを知ってしまった今は、割礼を受けているかどうかなど、どうでもよいことでした。割礼がどうでもよい、など、確かに昔のパウロを知っている人たちからしたら、およそパウロらしくなかったと思います。けれども、主イエスのすばらしさを知ったとき、その恵みの大きさを知ったとき、彼にとって割礼は小さなことになってしまったのです。
 パウロは自分は「イエスの焼き印を帯びている」と言います。焼き印はまさに持ち主のしるしです。パウロは主イエスのもの、主イエスに仕えるしもべであることを公言してはばかることがなかったのです。



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