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ガラテヤ 3章1〜5節 2014年2月20日 |
ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか。(1)
ケパやユダヤ人キリスト者、バルナバの中にさえも、ある意味、律法の行いによって生きようとする姿勢が出て来てしまうということの中に、律法の行いによって義とされようとする人間の罪の根深さが見えているように思います。そして、異邦人の中から救われて主を信じる者となったガラテヤのキリスト者たちもまた、律法の行いによって自分の義を立ててていくという誘惑に引き込まれようとしていたのでした。
パウロは言います。あなたがたが救われたのは、律法を行ったからではなく、聞いて信じたからではないか。そして信じたあなたがたに、神は御霊を与えてくださったではないか。十字架につけられたキリストが、あなたがたの目の前に鮮やかに描き出されたのではなかったのか。私たちが救われたのはまさに、この十字架について私たちのために死んでくださった主イエスの恵みによるのです。
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ガラテヤ 3章6〜14節 2014年2月21日 |
キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。(13) パウロは創世記十五章6節を引用しながら、アブラハムが義と認められたのは、彼が神を信じたからだった、と言います。ユダヤ人も異邦人もまさにアブラハムと共に、神を信じることによって義と認められるのです。そしてその意味で、神を信じるお互いは、たとい血はつながっていなかったとしても、共にアブラハムの子孫なのです。アブラハムの祝福は信じる私たちにも及んでいます。
律法の行いを追い求めていったら、私たちはどこまでも呪いのもとに置かれています。それは私たちは律法を行うことはできないからです。律法を行うことによっては私たちが神の御前に義とされることはありません。かえって律法を守ることができないという意味では、本来私たちは呪われるべき者なのです。しかし、そんな私たちを救うために、神はその御子を遣わしてくださいました。そして主イエスは、私たちの身代わりに呪われるべきものとなって、私たちの負うべき呪いを負って下さったのです。
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ガラテヤ 3章15〜18節 2014年2月22日 |
もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。(18)
次にパウロは遺言の例をあげて、ガラテヤの人々に語りかけます。人間の遺言でさえ、一旦作成されたら、何びとも、それを無効にすることはできません。ましてや神が語られた神の約束はなおさらのことです。この約束はアブラハムとその子孫とに与えられたのです。
律法が与えられたのは、アブラハムに与えられた約束よりもずっと後のことです。その意味でも、律法が与えられたことによって、アブラハムへの約束が反故にされることはない。まさに、アブラハムの祝福を受け継ぐというすばらしい恵みは、律法を行うことによって与えられるのではなく、その約束に基づいて信じる者に与えられるものなのです。
しかし、ここでアブラハムとその子孫というとき、、直接的には、それはキリストを指しています。神に信頼し、その信仰の歩みを全うされた主イエスにつながることによって、私たちもまた、神の祝福の約束にあずかる者となるのです。
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ガラテヤ 3章19〜22節 2014年2月23日 |
しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。(22) もし、アブラハムに与えられた祝福の約束が信仰によって私たちのものとなるのだとしたら、「律法」とは何なのでしょうか。これは私たちの罪深さを明らかにするために、後から加えられたものに過ぎません。律法自体は私たちに対する神の御旨を指し示すものであり、神が与えられた聖なるものです。しかし、律法自体には、私たちを生かす力はありません。つまり、律法は神の御心を指し示すことはするのですが、それを行う力を与えることはない。結果として、律法は、私たちが神の御旨からどんなにかけ離れているかを明らかにする。そのことによって律法はすべての人を罪に定めたのです。
しかし、アブラハムに約束されていた子孫であったイエスがこの世に来られた時、主イエスは私たちのために贖いの御業を行い、誰であっても、信じる者に救いが与えられるという道を開いてくださったのです。まさに主イエスを信じ、このお方につながるときに、私たちもアブラハムの祝福を受け継ぐ者とされるのです。
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ガラテヤ 3章23〜29節 2014年2月24日 |
もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。(29) 律法は決して悪いものではありません。言ってみれば、それは養育係です。私たちが子どもの時には、親元にあって、いろいろな規則を与えられ、その中でいろいろなことを学んでいきます。そして、やがて時が満ちて、キリストが現れたとき、私たちはこの養育係の下を離れて新しい歩みを始めます。その時にはもう養育係の下にとどまる必要はないのです。
私たちは、このキリストが来てくださったことにより、キリストにある信仰によって神の子とされます。私たちはバプテスマによってキリストに合わされ、キリストを着たのです。
そしてこの信仰による救いをいただいた今、律法を与えられていたユダヤ人も、律法なしに生きてきた異邦人も、そこには何の区別もありません。異邦人もユダヤ人も、男も女も、自由人も奴隷も、信仰による救いということにおいては何の区別もないのです。このキリストにあって、私たちは共に約束に基づく相続人とされているのです。
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