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ガラテヤ 4章1〜7節 2014年2月25日 |
このように、あなたがたは子であるのだから、神はわたしたちの心の中に、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を送って下さったのである。(6) 人は律法の下に生まれ、律法に支配されていました。律法は決して悪いものではありません。律法は神のみこころを示す、私たちの養育係だからです。しかし、養育係(管理人・後見人)の下に置かれているのはある時期までのことです。神は御子イエス・キリストを遣わして、私たちを贖いだしてくださいました。そのことによって、私たちは、神との新しい関係の中に入れられました。私たちは神の子とされたのです。
そして、私たちは、神を「アバ、父よ」と呼ぶことができる者とされました。アバとは父親に対するとても親しい呼びかけの言葉です。私たちは、神との非常に親しい関係の中に入れていただいたのです。
子とされたということは、神の祝福の相続人とされたということでもあります。私たちは親しく神に呼び求め、神の持っておられるものを何でもいただくことができ、神の御国を喜びをもって待ち望む者とされたのです。
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ガラテヤ 4章8〜11節 2014年2月26日 |
しかし、今では神を知っているのに、否、むしろ神に知られているのに、どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして、またもや、新たにその奴隷になろうとするのか。(9)
ガラテヤの教会の人々にパウロは言います。あなたがたは以前は神ならぬ神々の奴隷として歩んでいた。無力で貧弱な霊力に縛られて生きていた。けれども、あなたがたは今はまことの神を知ったではないか。本物を見たのに、知ったのに、経験したのに、なぜいまさら、また元の生き方に戻っていくのか、また、神の恵みによって生きる世界から自分の努力や真面目さで救いを獲得しようかというような生き方に移っていくのか、パウロには理解できませんでした。
ここでパウロは「神を知っているのに、、否、むしろ神に知られているのに」と言います。聖書の中で、「知る」というのは単に知識を持っているというのとは違います。交わりの中に生かされているということです。神がイニシアチブを取ってくださって、神を知るものとされている。私たちが神を忘れそうになっても、神は私たちを忘れることなく、完全に知っていてくださる・・・その恵みの中に私たちは置かれているのです。
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ガラテヤ 4章12〜20節 2014年2月27日 |
ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。(19)
パウロはここで、最初自分がガラテヤ地方を訪ねながら主の福音を伝えて行った最初の頃のことを思い起こしています。実はパウロは最初からガラテヤ伝道をしようとしていたわけではなかったようです。彼は肉体が弱っている中で、おそらくその治療・静養のためにガラテヤに言ったのでしょう。けれどもガラテヤの人々はそんな弱さの中にあったパウロを心から迎えてくれました。おそらくパウロは何らかの眼病を患っていたのかもしれません。ガラテヤの人々の中には、自分の目をえぐり出してパウロにプレゼントしたいという人までいたほどだったのです。
ですからパウロは今、ガラテヤの人々がパウロが伝えた福音から離れて、福音とは似て非なるものの方にずれていってしまっていることが信じられないでいます。「あなたがたの内にキリストの形ができること」、それこそが、パウロが願っていたことでした。
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ガラテヤ 4章21〜31節 2014年2月28日 |
女奴隷の子は肉によって生れたのであり、自由の女の子は約束によって生れたのであった。(23)
律法の中にとどまっていると、神を信じ、その恵みによって救われるという世界からずれてしまいます。律法を行うことによって自己満足に陥り、まるで自分の行いによって救われるかのような誤解をし、神の恵みは自分には必要ないかのような錯覚をするようになるのです。
パウロはここで律法の下にとどまろうとする人々に対して、創世記のアブラハムの子イシマエルとイサクの例を用いて語りかけます。イシマエルは奴隷の女ハガルの子、イサクは自由の女サラの子でした。イシマエルは人間の計算と恐れと不安の中で生まれましたが、イサクは神の約束とそれを信じる信仰の中で生まれたのでした。そして神の祝福を受け継いでいったのはイサクの方でした。
私たちもイサクの子孫として、神の約束と、それを信じる信仰によって生きるべきです。人間の努力や律法の行いによってはどこまでも神の栄光にあずかることはできないからです。
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