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コロサイ 3章1〜4節 2014年5月12日 |
このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。(1) キリストは私たちの罪を負って十字架の上で死んでくださいました。しかし、キリストの十字架は身代わりの死というだけでなく、私たちはそこでキリストと共に死んだのです。ですから、私たちは、何を食べるとか食べないとか、触れるとか触れないとかといった規定に縛られているのではありません。
そして、同時に私たちは復活されたキリストと共によみがえらされたのだとパウロは言います。私たちは、新しい命を与えられ、上にあるものを求め、思い、見つめて生きる者とされたのです。それは何かの規定に縛られて自力で救いを勝ち取っていくということではなく、キリストと共にいきる新しい命が与えられているのです。
そして、キリストにあっていのちを与えられた私たちは、この地上を単に上を思いながら、望みをもって生きるというだけでなく、やがて、キリスト共に栄光のうちにあらわれるという喜びを与えられているのです。
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コロサイ 3章5〜11節 2014年5月13日 |
あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。(9〜10) 私たちは、主イエスに出会うまで、不品行・汚れ・情欲・悪欲・貪欲などの中に生きていました。怒り・憤り・悪意・そしり・恥ずべき言葉・うそ・・・それが私たちの心を満たし、日々の生活の中にあふれていました。しかし、主イエスを信じた時、私たちはそのような古き人を脱ぎ捨てたのです。ですから、主イエスを信じた私たちが、そのような古い生き方を続けて行くとしたら、おかしなことです。
脱ぎ捨てただけではありません。私たちは新しい人を着せていただきました。それは造り主のかたちに似せて作られたものであり、真の知識に至るものです。この新しい人を着て生きる時に、私たちは神がどのようなお方であるかが分かるようになっていくのです。それは身分・人種・国籍など、全く関係ありません。主イエスが私たちすべてのためにそのことをしてくださったのです。そして、私たちは皆、このお方によって救われ、このお方によって生きるのです。
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コロサイ 3章12〜17節 2014年5月14日 |
キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。(16)
キリスト者の歩みの土台は、私たちが「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者」とされているというところにあります。その後の様々な勧めはまさに、私たちがそのような大きな神の恵みの中に置かれているというところから来ているのです。逆に言うと、私たちはキリスト者として生きる中でいつもこの原点に立ち帰る必要があります。そうでないと、信仰によって始めたのに、自分の力や努力、頑張りで仕上げようとすることになりかねないからです。
キリスト者の歩みはまず同じ主を信じる兄弟姉妹の中で証されていかなければなりません。そこで求められるのは、忍耐であり、ゆるしであり、愛です。そして、キリストの平和を心に満たしていただいて、私たちはひとつになって主に仕えていくのです。
そのような私たちの歩みを支えるのがキリストの言葉です。私たちは日々聖書の御言に養われ、また命を与えられて歩んでいきます。単にお勤めのように、聖書を開いて読んでいるというだけでなく、その読んだ御言が私たちの一日の歩みに留まり続けていくことを願っています。
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コロサイ 3章18〜4章1節 2014年5月15日 |
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。(23) 今日の箇所では、ごくごく身近な人間関係の中でどのようにキリスト者として生きるのかが語られています。ここで取り上げられているのは夫婦関係であり、親子関係であり、主人としもべという関係です。信仰は日々顔を合わせるそのような近い人間関係の中で生かされていかなければならないのです。ただ、私たちは時にそれが遠い関係にある誰かを愛するよりも難しいことであることを知っています。
ここで鍵になるのは「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように」「心から」ということでしょう。まさに、私たちは目に見える近い関係の人々を愛し、また仕えていくことによって、目に見えない神に仕えていくのです。
もちろん、この地上の人間関係においては愛を注げば必ず愛が返ってくるということではないかもしれません。しかし、私たちは見返りを求めて相手を愛するのではありません。それは主が私たちを愛してくださっているからであり、また御国を継ぐという報いが約束されているからなのです。
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