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Tテサロニケ 5章1〜11節 2014年5月28日 |
キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。(10) いつ主イエスは再臨されるのだろうか・・・それは昔も今も信じる者たちの大きな関心事でしょう。しかし、その「日時」は分かりません。ただ言えることは、それは「人々が平和だ無事だと言っているその矢先」であり、「突然」だということです。今日は主イエスの再臨はないだろうとみんなが思っているそのようなタイミングで主は再臨されるのです。ですから、いつ主イエスが来られても喜んでお迎えできるように、心の目を覚まし、慎んで主のおいでを待ち望みたいと思います。
ただ私たちはその日を恐れる必要も、不安に思う必要もありません。主イエスを信じる私たちにとってはその日は救いの完成の日です。その日、私たちは神の怒りの前に立つのではありません。主イエスは私たちのためにすばらしい救いを備えていてくださるからです。そのために主イエスはいのちを捨ててくださいました。この主イエスにあって、私たちはこの地上にあっても後の世にあっても、いつも主と共に生きるというさいわいに入れられているのです。
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Tテサロニケ 5章12〜22節 2014年5月29日 |
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。 (16〜18) 今日の聖句は多くの人が愛し、その生涯の指針としている聖書の御言でしょう。喜ぶこと・祈ること・感謝すること・・・神が私たちに求めておられるのは、まさにこのことです。ただ、「いつも」「絶えず」「すべてのことについて」と言われると、私たちはそのハードルの高さに絶句します。そして、「これはこの地上では達成できないが、高い目標をかかげるのは大切な事だ」と自分を納得させようとします。確かにこのことは私たちの頑張り・努力・覚悟・決心・修業などによってできることではありません。ですから、ここでパウロは「キリスト・イエスにあって」と言います。
この言葉を律法として聞くと、私たちは絶望するか開き直るかしかないでしょう。しかし、この聖句を、主イエスの恵みによって、神が私たちのために備えてくださる祝福として受け止めるときに、聖書の御言の通りの事が私たちの生涯の中に現実になっていくのです。
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Tテサロニケ 5章23〜28節 2014年5月30日 |
あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。 (24) パウロはこの手紙を締めくくるにあたって、もう一度テサロニケの兄弟姉妹のために祈ります。神が私たちに願っておられるのは、私たちが全くきよくされることです。私たちが汚れや罪を抱えながら生き続けたり、神を礼拝しながら、神以外のものに心奪われ、支配されて生きることを神は望んでおられません。また私たちの信仰と生活が乖離して、「霊的には信じているけれど、その生き方はまた別」となるのではなく、信じているように具体的に生きていくことを願っておられます。私たちはやがて来られる王の王なるお方を待ち望んで生きるのです。
ここでも「全く」「完全に」「責められるところのない者として」と言われるときに、私たちは神の標準の高さに恐れおののきます。聖なるお方はいくらでも私たちを責めることができるのではないでしょうか。
ここでも、パウロは私たちの目を、そのことをしてくださる平和の神ご自身に向けさせます。私たちを召してくださった真実な神がこのことをしてくださるのです。
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