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Tペテロ 2章1〜10節     2014年10月5日

あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。(9)

 私たちはキリストの血潮によってあがなわれ、神の言によって新しく生まれました。このすばらしい恵みをいただいた私たちは。悪意・偽り・偽善・そねみ・悪口を捨てて、神にすがり、神の恵みを求めていきます。
 私たちが信じ、頼る、主イエスは人々から捨てられ、十字架につけられ、殺されました。神の子が人となってこの世に来てくださったのに、そして自ら、自分は神の子、キリストだ、と言っておられたのに、人々は主イエスを否んだのです。人々は主イエスにつまづきました。自分の力で神の恵みを買い取ろうとしていた人たちは、十字架にかかってあながいを全うしようとされた神の子を認めることができなかったのです。
 しかし、この主イエスにすがる時に、私たちは救われます。驚くべきみ光の中に入れられ、聖なる国民・神につける民としていただけます。そして私たちは感謝してこのお方を語り伝えるのです。

Tペテロ 2章11〜12節     2014年10月6日

異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。(12)

 ペテロは小アジアのキリスト者たちに、あなたがたはこの世では寄留者であり旅人だと言います。すでに教会に対する迫害は始まっていました。またキリスト者たちは、主を信じてからは、この世の人々と同じ生き方はできませんでした。ある意味、教会はこの世にとっては異質なのです。教会がこの異質性を失ってはいけません。私たちの魂に戦いをいどむ肉の欲に従って生きてはいけないのです。
 ペテロは、異教徒たちの中にあって、りっぱな行いをするようにと言います。行いによって救われるわけではありません。しかし、私たちは自分たちの主を信じる者としての生き方を人々にあらわしていく必要があります。それは私たちが立派な人だと賞賛を受けるためではありません。そのことを通して、神があがめられ、私たちに反対し、悪人呼ばわりする人たちがいたとしても、その人もまた主を信じることができるためなのです。

Tペテロ 2章13〜17節     2014年10月7日

自由人にふさわしく行動しなさい。ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、神の僕にふさわしく行動しなさい。(16)

 主イエスを信じる者たちにとっては決して生きやすい時代、世界ではありませんでした。神を信じる生き方とは真逆な社会がそこにはありました。けれども、ペテロは、王であっても長官であっても、すべて人の立てた制度に、主のゆえに従うように、と勧めます。もちろん、この世の統治者たちが主を礼拝することを禁じたり、主の御旨に背くことを強要しようとするときには命をかけても主に従うべきです。ペテロ自身もそのような信仰の戦いを経験しました。ただ同時に、統治者たちが、私たちのために立てられた奉仕者たちであることも事実なのです。上に立つ人々のために祈る者たちでありたいと思います。
 私たちは主にあって罪から自由にされました。しかし、自由であるとは何でも自分勝手に自由気ままにしてよいということではありません。自由を悪を行う言い訳にしたり、主の業を行わない口実にしてはいけません。私たちは自由を与えられて、このすばらしい神に仕える者とされたからです。

Tペテロ 2章18〜25節     2014年10月8日

あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。(25)

 ペテロは「僕たる者よ」と呼びかけて、まず奴隷階級の人々に語りかけます。この時代のギリシャ・ローマ世界においては、産業の多くの部分は奴隷たちによって支えられていました。実際に、自由人よりも奴隷の方が数的にも多かったと言われています。この時代の奴隷たちは、一九世紀のアメリカの奴隷たちのように牛馬のように働かされ差別されるということはなかたようですが、それでも、奴隷としての生活は主人次第という面が強かったことでしょう。気難しく短気で心の狭い主人の奴隷たちが、不合理で不当な扱いを受けたであろうことは容易に想像できます。
 聖書はそのような差別や不義を仕方のないことだとは言いません。裁き主である主の御前にその罪が裁かれる日が来ます。しかし同時に、僕たちに対してペテロは神を信じ、主イエスを思いながら耐え忍ぶことを勧め、励まします。正しい裁きをする方がおられるからです。また主を信じた僕たちはたましいの牧者である方の元にいるからです。



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