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ルカ 19章1〜10節     2019年7月23日

きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。 (9〜10)

 エリコの町にザアカイという取税人のかしらがいました。主イエスの時代、ローマの支配下に置かれたイスラエルにあって、ローマに収める税金を徴収する取税人はとても嫌われていました。彼らは売国奴・守銭奴と見られていたのです。しかし、彼は主イエスがエリコに来られるということを聞いたとき、イエスがどんな人か見たいと思いました。しかし大通りにはすでに人が大勢出ていて、背の低いザアカイの入り込むすきはありません。ザアカイはいちじく桑の木に登って主イエスを見ていたのでした。主イエスはその木の下を通られたとき、上を見上げておっしゃいます。「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょうあなたの家にとまることにしているから」。そして主イエスがザアカイの家に泊まられた日からザアカイは全く別人になりました。彼は救われて新しい生き方を始めたのです。主は私たちのところにも来て、私たちの生涯を新しくしてくださいます。 

ルカ 19章11〜27節     2019年7月24日

主人は言った、「よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる」。(10)

 この聖書の箇所はミナのたとえです。マタイ二五章にはタラントのたとえがありますが、それとはまた別の話です。1ミナは百タラント、約四ヶ月分の給料にあたる金額です。主人は十人の僕にそれぞれ1ミナを渡して、自分の留守中にそれで商売をするようにと命じました。タラントの話では能力に応じて渡された金額はそれぞれ違ったのですが、このミナのたとえでは一人一人に預けられた金額は同じです。神様が私たちに託しておられる賜物にはそれぞれ違うものもあれば、誰にも同じように与えられているものもあります。一日の時間などはすべての人に等しくゆだねられてるものの一つです。そして私たちはそれを埋めてしまうこともできますし、またそれを有効活用することもできます。そこで鍵になるのは私たちが主人なる神をどのようなお方として知っているかです。主は必ず王として戻ってこられます。その日はすぐでないかもしれません。けれども私たちは信じて、忠実にその日を待ち望みつつ日々を生きるお互いでありたいと思います。

ルカ 19章28〜40節     2019年7月25日

「向こうの村へ行きなさい。・・・まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい」。(30)

 主イエスは先頭に立ってエルサレムに進んで行かれます。主イエスの思い、その覚悟が伝わってきます。そして主イエスはエルサレムに行かれる前に二人の弟子を近くの村に遣わしてろばの子を引いてこさせます。それは「まだ誰も乗ったことのろばの子」でした。王なるお方、神の子、聖なるお方をお乗せするからです。持ち主はびっくりしたようですが、弟子たちが「主がお入り用なのです」と答えると、そのろばの子を貸してくれました。主はまさにろばの子をそのご用のためにお用いになりました。そして同じように私たちのことも主の用のために用いてくださいます。
 人々は大歓声で主イエスを迎えます。同行していた人たちも弟子たちも神様を賛美しました。そこにはろばの子をほめたたえる人はいなかったでしょう。ろばの子の背中に乗っていた主イエスをたたえたのです。同じことが私たちの生涯の中にも起こります。私たちがたたえられるのではなく、主がたたえられるということです。

ルカ 19章41〜48節     2019年7月26日

いよいよ都の近くにきて、それが見えたとき、そのために泣いて言われた・・・(41)

 いよいよ都が近づいてきました。主イエスはその都で殺されようとしていました。人々は主イエスを本当の意味で受け入れようとはしていなかったのです。しかし、主はその都エルサレムのために涙を流されます。それは神が愛された都です。しかし、神がその名を置かれたその都が神の子を拒み、殺そうとしているのです。また主イエスはその都がローマの軍隊によって滅ぼされようとしていたことも知っておられました。主はその都をあわれんで泣かれます。主は決してエルサレムが滅びることを願っておられたのではありません。かえって人々がひるがえって生きることを願っておられました。
 しかし、彼らは救い主を拒もうとしていました。彼らは祈りの場であるべき主の宮が盗賊の巣になってしまっていても、そのことを問題に感じないほど、霊的に鈍くなっていました。主イエスの十字架の直前です。主は最後の最後まで人々を教え、悔い改めと救いに招こうとしておられたのです。



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