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ルカ 5章1〜11節     2019年4月24日

シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。(5)

 ここでルカはガリラヤ湖のことをゲネサレ湖と呼んでいます。ゲネサレとはガリラヤ湖の西側の肥沃な地方のことです。ガリラヤ湖の漁師たちは、夜、魚を捕りに行って、明け方には漁を終えて帰ります。ただこの時には夜通し漁をしたにもかかわらず、何も捕ることができませんでした。しかし、収獲がなかったとしても、網を洗い、破れを繕い、次の漁に備えなければなりません。陸に戻ってからのこうした作業は前夜の収獲によって全く気持ちが変わってきたはずです。彼らは疲れ切って作業をしていました。
 しかし、そこに主イエスが来られて、シモン・ペテロの舟を借り、舟の上から岸に集まっていた人たちに話をされたのでした。その後に、主イエスはシモンに沖にこぎ出して網を下ろして漁をするようにとおっしゃいました。シモンは何も期待していなかったかもしれません。しかし、彼が「お言葉ですから」と従ったときに、大漁を経験することができたのでした。

ルカ 5章12〜16節     2019年4月25日

「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。(12〜13)

 ここで出てくる「重い皮膚病」は単に体の病であるだけでなく、宗教的な汚れを意味するものとされていました。ですからこの病を診断するのは祭司の務めでした。そして、この重い皮膚病になると町の中に住むことはできず、また誰かが間違って近づかないように、「汚れた者です、汚れた者です」と叫ばなければなりませんでした。
 そんな重い皮膚病の男が主イエスに近づいて、癒しを求めました。彼は主イエスにはそのことがおできになると信じていました。あとは主イエスのお心しだいです。主イエスは手を伸ばして彼に触り、「そうしてあげよう、きよくなれ」とおっしゃいました。彼の病はただちに癒されたのでした。
 主は私たちにも手を伸ばし、私たちに触れ、私たちをきよくしてくださいます。まさにそれこそが主イエスのみこころだからです。

ルカ 5章17〜26節     2019年4月26日

イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。(20)

 主イエスが家の中で教えておられた時の出来事です。その家にはガリラヤからもユダヤからも人々が集まってきて主イエスの話を聞いていました。またそこには主イエスの噂を聞いて、様子を見に来たエルサレムのパリサイ人・律法学者たちもいました。
 その時、ある人たちが中風の男を床ごと連れてきました。主イエスに癒していただきたいと思ったのです。しかし家はいっぱいで、入ることができません。そこで彼らは屋根に上り(イスラエルの家の屋根は平らで、そこに上ることもできるようにようになっていました)、屋根に穴を開けて、病人を主イエスの前につり下ろしたのでした。もちろん、主イエスはこの病人と友人たちが何を期待していたかをご存じだったでしょう。それは中風が癒されることです。しかし、主イエスは彼にとってもっと重要なことを知っておられました。主イエスは彼に「あなたの罪はゆるされた」と宣言し、彼の罪をゆるしてくださったのでした。罪のゆるし・・・主イエスはまさにそのために来てくださったのです。

ルカ 5章27〜32節     2019年4月27日

イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。(31〜32)

 レビ(またの名をマタイ)は取税人でした。取税人は罪人であって、遊女と同じような扱いをされていました。まさに汚れていて、神からも呪われた存在とされていたのです。取税人はしばしば不正の利を得て私腹を肥やしていましたし、またイスラエル人であるのにローマの手先のようになって、ローマのために働いていたからです。
 しかし、主イエスはそのような取税人レビにも声をかけて彼を弟子のひとりとされました。彼はお金に困ってはいませんでしたし、また生活も保証されていました。しかし彼はすべてを捨てて、主イエスに従ったのでした。
 レビは自分の家で、主イエスのために宴会をします。ただ、そこに集まっていたのは取税人や罪人たちでした。顔をしかめる宗教家たちに対して、主イエスは、自分は罪人を招いて悔い改めさせるためにきたのだとおっしゃいました。主イエスはそのために罪人の友となってくださったのです。

ルカ 5章33〜39節     2019年4月28日

新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。(38)

 主イエスの時代のパリサイ人たちはとても厳格な生き方をしていました。断食や祈りなどを規則正しく行うことによって、自分は神に受け入れられる正しい生き方をしていると考えていました。そして、自分たちが大切に考えている生き方とは違う生き方をする人々を見下げ、切り捨てていました。
 パリサイ人たちにとっては、ある意味、禁欲的な生き方をしていたバプテスマのヨハネとその弟子たちは、許容範囲だったのでしょう(ただし、パリサイ人たちはバプテスマのヨハネの言葉を受けとめて、自分も悔い改めが必要だとは考えなかったのですが)。しかし、主イエスとその弟子たちの姿は、いわゆる自分たちを規準として考えた時に宗教家とは言えない・・・と断罪しているのです。
 しかし、主イエスは、自分の教えは新しいぶどう酒のように命があり、力があるので、古い皮袋のような古い考え方・生き方にはおさまらない、新しい皮袋、新しい生き方が求められているのだとおっしゃったのです。



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