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ルカ 18章1〜8節 2019年7月17日 |
まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。(7〜8) 主イエスは「失望せずに常に祈るべきこと」を教えられました。私たちはすぐに失望しますし、またすぐに祈ることを止めてしまうからです。主イエスはひとつのたとえ話をなさいます。「不義な裁判官」というたとえです。ある町にひとりのやもめがいて、とても困って自分の権利を守るために裁判を起こそうとしていました。しかし、その町の裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない」人でした。当然、このやもめのために裁判をしようとは全く思いません。しかし、このやもめはこの裁判官のところを度々訪ねて、正しい裁きを行って自分を守ってくれるようにと願い続けたのでした。この裁判官は最初は彼女の願いを取り上げませんでしたが、あまりしつこいので、ついに、面倒だから彼女のためになる裁判をしてやろうと立ち上がったのでした。不義な裁判官でも求め続ける者に答えてくれるとしたら、正しい神は、その民のために正しい裁きを行われないことがあるでしょうか。主は必ず、私たちの祈りに答えてくださいます。
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ルカ 18章9〜14節 2019年7月18日 |
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。(13) 祈りのたとえが続きます。ふたりの人が祈るために神殿に行きました。一人はパリサイ人、もう一人は取税人でした。パリサイ人は神殿で朗々と祈ります。自分は隣で祈っている取税人のような罪人ではないと感謝し、また自分がどんなにすばらしい歩みをしているかを胸を張って語ったのです。しかし取税人は違いました。彼は遠く離れて立ち、目を伏せて、胸を叩きながら「罪人のわたしをおゆるしください」と祈ったのでした。そして主イエスは、義とされて神の前から帰って行ったのはパリサイ人ではなく取税人の方だったと語られました。
祈りは私たちの正しさや信心深さをアピールする場ではありません。謙虚になって自分の罪深さを認め、主のあわれみとゆるしとを求めるのです。そして、主は私たち自身の正しさによってではなく、神のいつくしみによって私たちの罪をゆるし、私たちを義としてくださいます。主イエスはまさにそのために来てくださったのです。
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ルカ 18章15〜17節 2019年7月19日 |
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。(17) イエスさまのところにはいつも多くの人たちが集まって来ていました。主イエスはとても多忙で、食事する暇もないほどだったこともあるようです。しかし、人々はますます主イエスに近づいてきます。その中には子どもの上に手を置いてお祈りしてもらおうと願うお母さんたちもいました。
弟子たちは幼な子を連れてきた母親たちをたしなめます。弟子たちの中には自分たちが主イエスをお守りしなければならないという思いもあったことでしょう。主イエスがエルサレムに向かい、いよいよメシヤとしてその国を樹立しようとしておられるのだという大きな期待の中にあってはなおさらだったのでしょう。
しかし、主イエスは幼な子らを呼び寄せて、神の国は「このような者の国」とおっしゃったのでした。幼な子たちは神を素直に受け入れるということを主イエスは知っておられたからです。
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ルカ 18章18〜30節 2019年7月20日 |
これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。(26〜27) ある役人が主イエスのところにやって来て尋ねました。「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。彼は小さい頃から律法を守り、真面目に生きてきました。しかし、彼の中には永遠の命を持っているという確信がなかったのです。主イエスは彼に「あなたのすることがまだ一つ残っている」とおっしゃって、持ち物を全部売り払って貧しい人たちに施し、主イエスに従ってくるようにと招かれたのでした。しかし、彼はその主イエスの招きに答えることはできませんでした。
主イエスは「富んでいる者が神の国に入るのはむずかしい」とおっしゃいます。しかし、富は神からの祝福だと信じていた弟子たちはとても驚きます。それでは誰が救われるのだろう、と主イエスに問いかけます。主イエスの答えは「人にはできないことも、神にはできる」ということでした。人は自分の力で救われることはできません。それは神がしてくださることなのです。
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ルカ 18章31〜34節 2019年7月21日 |
人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかけられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう。(32〜33) 主イエスはエルサレムに向かっておられました。弟子たちはイエスさまがエルサレムに行かれたら、メシヤとして立ち上がって、ユダヤ人の王としてダビデの位につき、ローマに対抗する偉大な国が始まると期待し、信じていました。彼らの信じ、期待していたメシヤ像とは、まさにそのようなものでした。
しかし、主イエスはエルサレムを前にしてまた弟子たちに語られます。自分は「異邦人に引き渡され、あざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ、むち打たれてから、殺される」。それはギョッとするようなこと、弟子たちにしたらあってはならないことでした。しかし、私たちを救うために、主イエスはどうしても苦しみ、そして死ななければならなかったのです。
しかし主イエスの死は、死で終わらず、三日目によみがえるという約束を伴っていました。けれども主イエスの救いを理解できなかった弟子たちにはその主イエスの約束は耳に残らなかったのでした。
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ルカ 18章35〜43節 2019年7月22日 |
彼が近づいたとき、「わたしに何をしてほしいのか」とおたずねになると、「主よ、見えるようになることです」と答えた。そこでイエスは言われた、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。(40〜42) 主イエスはエリコという町に近づいておられました。その時、そのことを聞いた盲人のこじきたちが、主イエスに対して声を上げて言いました。「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。人々がどれだけ彼をしかりつけて黙らせようとしても、彼はますます激しく叫び続けました。そして主イエスは彼をお呼びになったのでした。主は彼に「わたしに何をしてほしいのか」とお尋ねになります。彼は「見えるようになることです」と答えたのでした。
彼は自分の問題がお金がないということでも、経済的な情勢が厳しくて人々の施しの額が落ちているということでもなく、「目が見えない」ということだということを知っていました。彼は主イエスが自分の求めに答えて、自分の目が見えるようにしてくださるということを信じていました。そして主イエスは彼の信仰に答えてくださったのです。
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