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ルカ 12章1〜12節 2019年6月17日 |
五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。(6〜7) 主イエスはそこに集まって来た群衆に語られます。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」。パン種はイースト菌のことですが、イースト菌はほんの少量でもパン全体をふくらませます。旧約聖書ではパン種はしばしば汚れを意味するものとして扱われ、過越の祭の時などは、パン種を入れないパンを食べ、パン種自体も家の中に置いておかないようにと決められていました。主イエスがパン種という言葉で注意されたのはパリサイ人たちの中にあった偽善であり、彼らの教えのことでした。パリサイ人たちを初めとする宗教家たちは主イエスやその弟子たちを迫害しました。彼らに気をつけることも大切ですが、彼らを恐れる必要はありません。どんな迫害があったとしても、神様は私たちのことをいつも心にとめていてくださいます。五羽2アサリオンで売られているすずめの一羽というのは、二羽1アサリオンで、四羽買ったら一羽おまけというそんなすずめのことです。また髪の毛の一本までも主は覚えていてくださっているのです。
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ルカ 12章13〜21節 2019年6月18日 |
あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである。(15) イエスさまのところに遺産分与の問題を持ち込んできた人がいました。二千年前も現代と同じような問題があったということに私たちは驚きます。主イエスは貪欲に対して警戒するようにと語られました。私たちには「欲」があります。もちろんそれ自体は神様が私たちに与えられたとても大切なものだと思います。しかし、欲は時にストップがきかなくなります。また自分のことしか考えず、人からも奪い取ろうとしたりします。それは貪欲です。どれだけ与えられても、感謝したり、満足したりすることなく、もっともっとと求めるのです。
けれども、私たちがこの地上で用いることができるものには限度がありますし、自分のためだけに生きるのはとてももったいないことです。主イエスは神に対して富むようにと語られました。私たちは自分の命を自分の好きなようにすることはできません。また、財産があるということは、それを神様の御旨のために用いるようにということなのです。
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ルカ 12章22〜34節 2019年6月19日 |
ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。(31〜32) 私たちは生活のいろいろなことを心配するものです。確かに今の日本では、その日の食事のことで心配する人は少ないかもしれません。けれども衣食住が足りていたら足りていたで、またいろいろなことが心配になってきます。しかし、イエスさまはおっしゃいます。からすも野の花も何も心配していないけれども、神はからすを養い、また野の花を美しく咲かせてくださる。神が、からすや野の花よりもはるかにすぐれている私たちに、それ以上よくしてくださらないことなどあるでしょうか。私たちが求めるとしたら、そのようなことではなく、大胆に御国を求めるべきです。そして、神様は私たちが求める時に、喜んで御国を与えてくださいます。神様は私たちに御国を与えたいと願っておられるからです。また御国を与えられることを確信し、喜びつつ待ち望んでいる私たちは、喜んで地上の宝を天にたくわえ、また必要を覚えている人たちに与えるのです。
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ルカ 12章35〜40節 2019年6月20日 |
あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。(40) あなたがある家のしもべで、自分の主人が婚宴に出かけて留守をしているとします。婚宴はしばしば夜にまで及びました。主人が帰ってくるのは確かですが、いつ帰ってくるかはわかりません。そのような中で、あなたは主人を待っていなければないのです。主人が帰って来るときに、家に近づくとあかりが家にともっていて、玄関に立つとすぐに戸を開けてもらえたとしたら、どんなに喜ぶことでしょうか。夜中でも夜明けでも、起きて主人を迎えることができたら、主人は心からあなたを喜ぶことでしょう。
また盗人も、いつ頃来るかわかりません。わかっていたら、押し入られないように、ちゃんと目を覚まして警戒するはずです。
主イエスはおっしゃいます。主は再び帰って来られる。しかし、それがいつかはわかりません。主イエスは思いがけない時に帰って来られます。だから、ちゃんと目を覚まし、いつ主がお帰りになっても喜んでお迎えできるように準備していることが大切なのです。
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ルカ 12章41〜48節 2019年6月21日 |
主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。(43〜44) ペテロは主イエスのたとえ話が、弟子たちのために語られたのか、みんなのために語られたのか、主イエスの真意を確認します。結論から言うと、十二使徒たちだけではなく、すべてのキリスト者が聞かなければならないメッセージでした。ただ、主イエスのそばにいて、共にに歩んでいた使徒たちにはより多くのことが求められてもいました。その意味では、私たちが信仰の歩みを重ね、主と共なる歩みを続けていくなかで、私たちに与えられる祝福も大きいのですが、同時に主の私たちに対するご期待も大きくなると言えます。
私たちは皆、「忠実で思慮深い家令」であることを期待されています。家令の務めは時に応じて、定めの食事を備えるということです。そして、私たちは主と共に歩む中で、主人のこころ、主人が願っていることをより深く知るようになります。であったら、主人がいつ帰ってきても良いように、喜びをもって備えていたいと思います。主はさらに豊かな祝福を注ごうとしておられるからです。
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ルカ 12章49〜53節 2019年6月22日 |
わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。(49) 主イエスは火を投じるために来た、とおっしゃいました。この火を投じるという言い方には二つの意味があります。この火は一つには命の火です。主は天から火を下すように、私たちに命を与え、私たちをきよめて下さいます。火は一カ所にとどまることなく、燃え広がり、光と熱とを生み出します。けれども同時に、この火は、厳しい裁きを象徴しています。主がこの世に来られたのは平和をもたらすため、というのもその通りです。しかし、それはみんながけんかをすることなく、いつも同じ意見で、仲良くしているということではありません。主はある意味、分裂や対立を生み出すために来たのだとおっしゃいます。火が投じられるときに、本物と偽物があらわにされてしまいます。そこでは、その人の本音、その心の深いところにある真相が暴かれてしまうのです。ただ、主が願っておられるのは、私たちが滅んでしまうことではなく、命を得ることです。そのために主はあえて苦しみを担おうとしておられたのです。
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ルカ 12章54〜59節 2019年6月23日 |
偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。(56) 主イエスは、時を見分けるようにとおっしゃいました。人々は目の前に神から遣わされた神の子がおられるのに、そして、自分が置かれている時の意味の大きさに、気づくことがありませんでした。人々は、主イエスを十字架につけて、殺そうとしていたのです。それは確かに救いの成就の時でした。けれども同時に、一人一人の真相が明らかになる時でもありました。ローマは主イエスの十字架から四十年後に、エルサレムを陥落させ、ユダヤ人たちはまた散らされようとしていました。苦難の時、裁きの日が近づいていました。
私たちは時を見分けることを知りたいと思います。主は私たちのために十分なしるしをも与えてくださっているからです。悔い改めるべき時、和解すべき時、従うべき時・・・ふさわしい時、許されている時があります。主が備えてくださっている恵みの時をしっかり受けとめて、主の御思いに応えていくお互いでありたいと思います。
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