chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
マルコによる福音書
ルカによる福音書
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16 17
  18 19 20 21 22 23 24
バックナンバー
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
ルカ 6章1〜5節     2019年4月29日

人の子は安息日の主である。(5)

 ある安息日に、主イエスは弟子たちと麦畑の中を通っておられました。弟子たちはお腹が空いたのでしょうか、麦の穂を摘んで、それを手でもんで食べていました。イスラエルでは他人の畑でも、その麦を手で摘んで食べることは許されていました。鎌で刈ることは盗みにあたるとされていたのですが、手で摘んで口に入れることは盗みではなく、収獲を与えられた主の恵みであり、お互いに助け合うという意味でも許容されていたのです。しかし、パリサイ人たちはこの弟子たちの行為を問題にしました。穂を摘んで、もんで、口に入れたということ自体ではなく、それが安息日だったということが問題とされたのです。つまり彼らが穂を摘み、それをもんだということは、安息日に収獲・脱穀という仕事をしたということになると非難したのです。
 しかし、主イエスは、「安息日にしてはならぬこと」に意識が向いている彼らに旧約聖書を用いて反論され、安息日の主である主イエスは安息日も働いておられること、安息日に何をしないかではなく、何をするか、誰を仰ぐのかが問われているのだということを示されたのです。

ルカ 6章6〜11節     2019年4月30日

そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。(10)

 主イエスと宗教家たちの確執はなお続きます。安息日に主イエスが会堂で教えておられたとき、そこに右手の不自由な人がいました。律法学者やパリサイ人たちは主イエスの様子を悪意をもってうかがっていました。彼らは主イエスがその右手の不自由な人をごらんになった時、何をなさるであろうかということを知っていました。きっと主イエスはこの人をあわれんで、癒すのだろう、ということを予測していました。主イエスにはその力があるし、主イエスはこの人をいつくしむお方だということを知っていました。しかし、彼らが主イエスをにらみつけていたのは、その日はどんなによいことであっても「してはならない」日だと考えていたからです。
 主イエスは安息日に善を行い、命を救うのは当然であることを人々につきつけた上で、その人に「手を伸ばしなさい」とおっしゃいました。そして主イエスが語られた通りに、彼の手は元通りになったのでした。

ルカ 6章12〜19節     2019年5月1日

このころ、イエスは祈るために山へ行き、夜を徹して神に祈られた。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。(12〜13)

主イエスは人となって天から来てくださった神の子です。ある意味、祈るまでもなく父なる神との間に深い交わりを持っておられたとも言えます。しかし、主イエスは祈られました。日々、神の前に出て祈られたというだけでなく、特別な時に、集中して祈られました。この聖書の箇所もそのような特別な祈りの時でした。主イエスは単に自分の好みやフィーリングで十二弟子たちを選ばれたのではありません。彼らに特別な使命を与えるために、夜を徹して祈り、十二人を選ばれたのです。
 主イエスが選ばれた十二人は実にユニークなメンバーでした。ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、この四人は漁師でした。マタイは取税人、トマスは科学的な視点を持っていた人、熱心党はその当時の右翼でした。疑問符がつくようなメンバーです。しかし、主イエスは彼らを祈りをもって選んでくださいました。私たちもまた主イエスの祈りの中で選ばれ、特別な使命を与えられているのです。

ルカ 6章20〜21節     2019年5月2日

あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
神の国はあなたがたのものである。(20)

 マタイ五〜七章の山の上の説教に対して、「平地」(17)の説教とされています。山の上の説教と語られた場所や状況、時、そして聞き手も違っていたのでしょう。マタイによる福音書の山の上の説教では「心の貧しい人たちはさいわいである」とあるのですが、ルカによる福音書のこのところでは「心の」という言葉が省かれています。貧しい、いま飢えている、いま泣いている・・・ここでは直接的には心の内面の問題を語っているのではなく、今、私たちが抱えている現実の経済的な困難や、食糧の問題、悲しみの問題について語っているのです。
 ただその場合、貧しいとか、飢えているとか、悲しんでいる、とかいうことが本当に「さいわい」「祝福されている」と言えるのでしょうか。もしそれが主イエスのおっしゃりたいことだとしたら、嫌みに感じる人もいるかもしれません。しかし、主イエスはそのようなこの世では気の毒で、神の恵みから外れていると思われがちな人たちが実は神の祝福の中に置かれていると宣言されたのです。

ルカ 6章22〜23節     2019年5月3日

人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。(22〜23)

 人々が主イエスのために、私たちを憎んだり、仲間はずれにしたり、ののしったり、汚名を着せるということがあるかもしれません。いや、実際にあるのだと言うのです。主イエスに従う道は必ずしも人々から賞賛を受け、注目され、多くの報酬を得るという、この世の成功につながる道とは限りません。いや、かえって主イエスに従う道はこの世的な成功とはまるで遠いところにあり、また大きな孤独を感じながら生きなければならないものかもしれません。しかし、主イエスは「さいわいだ」とおっしゃいます。「喜べ」「踊れ」とおっしゃいます。
 それはこの地上で得るものが少なかったとしても、天において大きな報いが得られるからです。この地上の繁栄や豊かさはほんの一瞬のものにしか過ぎません。しかし、天の報いは永遠に続きます。また旧約聖書の時代から神のしもべたちはずっとそのようなある意味理不尽な扱いを受け続けてきたのです。天に目を向けて歩むお互いでありたいと思います。

ルカ 6章24〜26節     2019年5月4日

しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。
慰めを受けてしまっているからである。(24)

 主イエスの時代、富を持っているとか、すばらしいごちそうに満腹するとか、笑いに満たされて日々を楽しく送るということは神から愛され、神の祝福をいただいているしるしとして受け取られていました。今も、私たちはきっとそのように感じることでしょう。ですから、この主イエスの言葉は大きなショックと戸惑いを人々にもたらしたに違いありません。
 もちろん、神様の祝福をいただいて感謝すべき時に、「こんなに今良いことがあると、この先きっと悪いことが起こるに違いない」と不安に思う必要はありません。問題は「今」だけに心を向け、「この世」「見える世界」だけで満足してしまうことです。この世にあっては神のみこころを行って生きるよりも、嘘をついたり、人をだましたり、自分の欲だけを動機に生きていった方が大きな成功を得られるかもしれません。けれども、そのような豊かさはほんの一瞬のことにしか過ぎません。この世の祝福だけに縛られない歩みをさせていただきたいと思います。

ルカ 6章27〜36節     2019年5月5日

敵を愛し、憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。(27〜28)

 とても有名な主イエスの言葉です。私たちの生涯にも「敵」はいるでしょう。相手の方でもあなたのことを敵視し、私たちの方でも好きになれないような人です。そのような人はあなたを憎み、あなたをのろい、あなたをはずかしめ、時に、あなたの頬を打ち、あなたから奪い取ろうとするのです。しかし、主イエスは「敵を愛し、憎む者に親切にせよ」とおっしゃいました。それは単に意地悪をされても仕返しをしないということではなく、積極的に愛し、親切にし、祝福し、その人のために祈るということであり、与え、相手の望みに答えていくということです。
 それは私たちの天の父がそのようなお方だからです。私たちの天の父は情け深く、慈悲深いお方です。そのような父によって、罪を犯し、神の敵であった私たちも、その愛の中に置かれ、罪赦されて神の子とされました。そして神の子である私たちは父と似た者として歩んでいくのです。

ルカ 6章37節     2019年5月6日

人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。(37)

 「人をさばく」というのは、人を評価し、ダメ出しをし、切り捨てることです。私たちは、人を自分の持っている物差しで測り、短絡的に評価します。一番単純な物差しは、「好き・嫌い」、または「正しい・間違っている」、というようなものですが、私たちは案外、一本の単純な物差しで人を評価してしまうことが多いものです。ただそのような一本の物差しで人を判断することは、多くの大切な見るべきものから目をそらすことになります。
 人を見るときに必ずそこに加えなければならない視点があります。それはその人もまた神に造られた存在だということであり、神に愛されている存在なのだ、ということです。欠点のない人はいません。ダメ出しをし合い、さばき合い、傷つけ合うことは、主イエスの願っておられる教会のあり方ではありません。愛し合い、ゆるし合う交わりの中にとどまりたいと思います。

ルカ 6章38節     2019年5月7日

与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。(38)

 私たちは自分が得をすることが好きです。人よりも損をしたくないと思います。人に損をさせられたくないと思います。そこにあるのは何とか人よりも多くを奪うということです。そこでは目の前にいる相手といつも勝負をしていることになります。そして相手を負かさないと、自分が負かされてしまうのです。
 しかし、主イエスは別の道を示されました。それは与えるという道です。それは自分が負けること、損をすることを意味しているようにも思います。しかし、主は、まず私たちが与えれば、自分にも与えられるとおっしゃいます。ある時点を切り取れば確かに損をしているように見えるかもしれないけれど、決して損ではない。「人々は押し入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、入れてくれる」というのです。まず主が語られたように、「与える」ということをしてみたらどうでしょう。ケチケチして、自分のことしか考えない人はますます貧しくなってしまいます。

ルカ 6章39〜45節     2019年5月8日

善人は良い心の倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。心からあふれ出ることを、口が語るものである。(45)

人のことは気づきますし、また気になるものですが、自分のことはなかなか見えないものです。自分が見えていないのに、目の見えない人の世話ばかりやこうとしてもなかなかうまくいきません。大事なことは、人の心配をする前に、まず自分が整えられることです。整えられるとは、まず自分から正しい行動をしなさいということではなく、自分の存在の部分がどうあるかということです。自分の内側が神様の前に良い木、良い倉になることなのです。
 自分の内側が悪い木のようであったら、どんなに努力をしたところで、やはり悪い実を結んでいきます。だからこそ、まず神様にしっかり向き合って、神様の恵みによって、良い木、良い倉にしていただきましょう。私たちの行動も生き方もまた言葉も、私たちの内側が決めていきます。目に見える部分は、目に見えない部分で決まるのです。目に見えない部分を神様の御手の中で取り扱っていただきましょう。

ルカ 6章46〜49節     2019年5月9日

わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者・・・は、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。(47〜48)

 主イエスを「主」とお呼びするということは本当に大切なことです。ただもしそれが口先だけのことだったとしたら、どれだけ、「主よ、主よ」とお呼びしたとしても本当に、イエスを主と告白したことにはならないでしょう。大切なことはイエスを主と告白するからには、ただそのようにお呼びするだけでなく、イエスを主として生きることです。イエスさまが私たちの主であったら、当然、主なるイエスさまの言葉をよく聞くでしょうし、主イエスの言葉に従って生きるはずです。
 ここで、主イエスは口先だけではない、聞いて従う生き方を、地を深く掘り、岩の上に土台をすえるようなものとおっしゃいました。それは大変な労苦を伴うことかもしれません。しかも、土台というのは普段は見えないものです。しかし、「洪水が出て激流がその上に押し寄せる」ような困難で厳しいときに、大きな違いが出てしまうのです。



礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに