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ルカ 11章1〜4節     2019年6月7日

また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。(1)

 ルカはこの福音書の中で、度々、イエスが祈っておられたことを記録しています。主イエスは神の子ですから、神様の思いはよく分かっておられたでしょうし、また、祈るまでもなく御自分で何でもできたはずです。しかし、主イエスはしばしば祈られました。祈ることを大切にし、祈りを喜びとしておられました。まさに主イエスの命と力の源は祈りにありました。そのことは弟子たちにも明らかでした。ですから、弟子たちは主イエスに「祈ることを教えてください」と求めたのです。
 主イエスはその求めに応じて主の祈りを教えられました。この祈りは「父よ」という呼びかけで始まります。まさに主イエスにとって祈りとは愛に満ちた父なる神との対話でした。それはお願いを相手に訴え、理解してもらうということではありません。ある意味、私たちの必要は、私たち以上に神の方が知っておられるでしょう。祈りの中で、私たちは神をあがめ、神との関係を深めていただくのです。

ルカ 11章5〜10節     2019年6月8日

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。(9〜10)

 主イエスは主の祈りを教えられた後、一つのたとえ話をなさいました。ある人のところにたまたま友人が訪ねて来たのだが、着いたのが真夜中だったため、何も食べ物がなかった。友人はお腹を減らし、疲れ切っている。仕方がないので、近くにいる別の友人の家に行って、パンを貸してほしいとお願いした。その友人は、最初は、夜遅い時間でもあり、また自分が起きると子どもたちも起こすことになってしまうので出してあげられない、と言っていたが、しきりに願うので起き上がって必要なものを出してくれた。そして主イエスはおっしゃいます。求めなさい、求め続けなさい、そうすれば与えられる。すべて求める者は得るのだ。私たちが祈ることを許されているということはすばらしいことです。迷惑だとしても求め続けるなら答えてくれるとしたら、喜んで与えようとしておられる神に求めるなら、必ず答えていただけることは、火を見るより明らかだからです。

ルカ 11章11〜13節     2019年6月9日

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。(13)

 主イエスのたとえにおいては、パンを求めて近くの友人のところを訪ねた人は、自分の食べるパンではなく、自分のところに来たゲストに出すパンを必要としていました。疲れ切ってお腹を減らしたゲストが目の前にいるのに、自分の手元には何もなかったのです。けれども彼は、近所の友人の家にはパンがあること、そしてその友人は自分のためにきっとパンを出してくれることを知っていました。
 主イエスはおっしゃいます。父である者だったら、たとい悪い者であっても、自分の子の求めに対しては真摯に向き合って、良いものを与えてくれる。ましてや、天の父は求めてくる者に良いものをくださらないなどということはあり得ない。そして、私たちが主に仕え、また人に仕えていくために一番必要で、一番すばらしもの・・・それは聖霊です。今日はペンテコステです。主はその聖霊を私たちにも与えてくださるのです。

ルカ 11章14〜26節     2019年6月10日

しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。(20)

 悪霊につかれている人がいました。彼にとりついた悪霊は彼がしゃべることができないようにしていました。しかし、主は彼の中にいた悪霊を追い出してくださいました。悪霊が追い出されたとき、彼はしゃべることができるようになりました。主は様々な悪霊を追い出し、病を癒しておられました。それはまさに主イエスが神から遣わされたお方であることのしるしでした。素直に見ればそれは疑いようのない事実でした。しかし、信じない人は何を見ても信じないものです。主イエスを信じない人々は、主イエスが神の子、メシヤであり、このお方によって神の支配が始まっているというしるしを見ながら、悪霊のかしらベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると非難したのでした。
 また主イエスは悪霊を追い出していただく恵みと共に、それ以上に、主なるお方に心の中に住んでいただくことの大切さを語られたのです。

ルカ 11章27〜28節     2019年6月11日

しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。 (28)

 群衆の中から一人の女性が声を上げました。主イエスの母親に与えられた恵みの大きさを思って、感情が高ぶったのでしょう。確かにマリヤは恵まれた女性でした。ガブリエルがマリヤのところに来た時にも、マリヤのことを「恵まれた女」と呼び、「あなたは神から恵みをいただいている」と告げました。神から遣わされた救い主、メシヤ、キリストの母親となるというのは、歴史の中に生まれた女性の中で、ただマリヤだけに与えられた特権でした。
 ただ主イエスはある意味、マリヤと同じように、マリヤ以上に恵まれているのは、「神の言を聞いてそれを守る人」だとおっしゃいました。神の言を聞くことができるという恵みに感謝すると共に、ただ聞くだけでなく、それを行い、それを守り、それに生きるのです。それは決して何かのおきてや規則ではなく、神が私たちに与えようとしてくださっているすばらしい恵みです。神はそのような豊かな恵みの中に私たちを置いていてくださるのです。

ルカ 11章29〜32節     2019年6月12日

しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。・・・しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。(31〜32)

 主イエスはしるしを求める信仰に対して警戒しておられました。つまり、何か証拠を見せてくれたら信じるという姿勢です。ただそのような信仰は、時に、何を見ても信じないということになります。実際、主イエスの時代の宗教家たちは主イエスの行われる奇跡を見ても、またその語られる恵みの言葉を聞いても信じようとしませんでした。主イエスがヨナのしるしと言われたのはヨナが三日魚の腹の中にいたというしるしです。そして主イエスも三日、墓の中におられたのです。それほどのしるしがあっても信じない人は信じません。
 南の女王はソロモンの知恵を聞くためにシバの国から旅をしてやってきました。またヨナの時代、ヨナの宣教を聞いたニネベの人たちは心から悔い改めました。しかし、この時、人々の前におられたのはソロモンよりも、ヨナよりもはるかにすぐれた方でした。まさに旧約聖書をはるかに越えた方、旧約聖書を成就された方、旧約聖書が指し示しておられた方がそこにおられたのに、人々は信じようとしなかったのです。 

ルカ 11章33〜36節     2019年6月13日

あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。(34〜35)

 小さなあかりでも暗闇を照らすことができます。目はからだのあかりです。目は小さい器官ですが、それが澄んでいたらはっきりと見ることができます。逆に目がかすみ、曇っていたら、ものをはっきり見ることはできません。目が澄んでいれば世界は明るく見えるでしょう。私たちの心の目は澄んでいるでしょうか。心の目が澄んでいたら、私たちの前にいてくださる主の御姿をはっきりと見えることができるでしょう。逆に目が曇っていたら、光に満ち愛にあふれた主を知ることができません。
 大切なのは私たちの内なる光が暗くなっていない、明るいということです。私たちの内側が暗かったら、神を見ることはできませんし、また世界を照らすこともできません。私たちの心の目を明らかにしていただき、私たちの内側を明るく照らしていただきましょう。そして、私たちも光となって世を照らす者としていただきたいと思います。

ルカ 11章37〜41節     2019年6月14日

ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる。(41)

 主イエスの時代の宗教家たちは自分をきよく保つことにとても心を使っていました。汚れたものに触れないことに気をつけ、また汚れたものが体の中に入らないように、念入りに手を洗い、また食器をきよめました。それが衛生的だからではなく彼らは宗教的な行為として手を洗い、身をきよめ、洗いの儀式をしていたのです。主イエスは宗教家たちがそれほど手をきよく保つことに心を配っていたのに、自分の内面に対して無頓着であるのが不思議でならなかったのです。
 目に見えるもの、外側を洗い、きよくするのも確かに大切でしょう。でもそれ以上に、はるかに大切なのは私たちの内側、目に見えない部分をきよく保つということです。自分のうちにある汚れや罪を認めて、それをきよくしていただくことです。外側でしたら、私たちの努力できれいにすることができるでしょう。けれども内側をきよめることは私たちにはできません。それをしてくださるのは神様だけです。

ルカ 11章42〜44節     2019年6月15日

しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。(42)

 パリサイ人たちはとても真面目な人たちでした。彼らは聖書の律法を厳格に守って誠実な生き方をしようとしていました。たとえば什一献金をするということについても単に現金の収入だけでなく、様々な香料や野菜が与えられた時には、きっちりその十分の一を宮に納めていました。それはどうでもいいということではありません。問題は、そういうことには一生懸命なのに、もっと大切な義や神への愛をないがしろにしているということです。人に認められ、ほめられることを喜びとする中で、人から見られるところ、うわべをよく見せることばかりに夢中になっている。主イエスは「人目につかない墓のようなもの」とおっしゃいました。その下に骨が埋まっていても人々は気づきません。表面的にはきれいな公園のように見えるかもしれません。しかし、内側には汚れたものがたくさん埋もれている。それなのに、そこには手をつけようとしない、そこをきよくしようとしない。私たちはどうでしょうか。

ルカ 11章45〜54節     2019年6月16日

あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。(46)

 律法学者は聖書の専門家でした。聖書の詳細にわたって研究すると共に、まだ印刷技術のない時代にあって聖書の写本を作成する仕事もしていたかもしれません。主イエスはこの律法学者たちに対しても「わざわいだ」とおっしゃいます。それは非常に深刻なことでした。殉教した預言者たちの記念碑を建てるのですが、預言者たちをしいたげ、迫害したのは彼らの先祖たちでした。彼らは預言者たちを知り、その預言者たちが語っていたメッセージを知っていました。しかし、彼らは自分を、迫害する側ではなく、迫害された側に置いていました。本当は、自分も迫害する側だったかもしれないと自分を顧みることは全くなかったのです。そして彼らは神から遣わされた神の子イエスを殺そうとしていました。彼らはメッセージを知っていました。しかし、彼らはその御言に聞き従わず、かえって聞き従おうとする人たちの邪魔をしていたのです。



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