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ルカ 15章1〜7節 2019年7月5日 |
あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。(4) 主イエスは、十四章ではパリサイ派のかしらの家で食事の席につかれたのでしたが、十五章では取税人や罪人と呼ばれる人たちと食事をしていました。彼らもまたイエスさまが大好きでしたし、主イエスから恵みの言葉を聞きたいと心から願っていました。しかし、主イエスがそのような人たちと一緒に食事をしているのを見て、パリサイ人や律法学者たちは文句を言いました。そんな彼らに主イエスは三つのたとえを語られました。
最初は九十九匹の羊のたとえです。正確に言うと、迷子になった一匹の羊の話と言った方がよいでしょうか。百匹の中で一匹が迷子になった時、羊飼いはそのいなくなった羊を求めて探し回るというのです。神様も同じように迷い出たひとりをとことん捜してくださるお方です。一匹くらいでどうでもいいと投げ出すのではなく、見つかるまで探し続けてくださる。私たちも迷いやすいものです。でもこの羊飼いがいてくだされば安心ですね。
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ルカ 15章8〜10節 2019年7月6日 |
よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。(10) 二つ目のたとえは十枚の銀貨のうち一枚をなくした女のたとえです。この十枚の銀貨は婚約者から受け取った十枚一組のとても大切なものだったかもしれないといいます。一枚くらいどうでもいいとは決して言えないし、また他のもので代わりにすることはできないのです。この女は家中を掃除してさがします。イスラエルの家は昼間でも薄暗いので、銀貨をさがすのはとても大変だったことでしょう。その銀貨はかけがえのない価値のあるとても大切なものでした。けれども、どこかに入り込んでしまったら、そのもの自体は価値はあっても、その価値を発揮することはできません。しかし、この女も見つけるまで探し続けます。
そして見つかったときに、近所の人たちも呼び集めて大喜びするのです。一人の罪人が神のところに帰る時、神は大喜びしてくださいます。主イエスが罪人たちを喜び迎え、喜ぶのはそのようなことでもあったのです。
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ルカ 15章11〜24節 2019年7月7日 |
さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 15:23また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。(22〜23) 三つ目のたとえは「放蕩息子」と呼ばれる有名なたとえ話です。ある人が二人の息子を持っていました。この人は神を、真面目な兄息子はパリサイ人や律法学者たちを、放蕩に身を持ち崩した弟息子は取税人・罪人たちを指しています。弟息子は父親のもとを飛び出して身を持ち崩し、落ちぶれて死にかかって始めて、本心に立ちかえります。そして、そのままの姿で父親の元に帰ることにしました。
やがてその弟息子が家に帰って来たとき、父親はまだ遠くにいるうちから彼を認め、走り寄って彼を迎え、抱きかかえて何回もキスをしました。そして、彼に指輪、着物、履き物などを与え、もう一度息子として迎え入れたのでした。父親は喜んで、子牛をほふり、歓迎の宴会を始めました。同じように、一人の人が神のところに帰ってくるのを神は本当に喜んで迎え、神の子と呼ばれる資格のない者を神の子として受け入れてくださるのです。
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ルカ 15章25〜32節 2019年7月8日 |
子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ。(31) 面白くないのは兄息子です。兄は怒って家の中に入ろうともしませんでした。父親は兄のことを心配して外に出て来て話しかけます。しかし、兄息子は言います。自分は一度も父親の言いつけを破ったことはない。しかし、父親は自分のためにやぎ一匹くれたことはない。
けれども、父親は兄息子に語りかけます。わたしはいつもあなたと一緒にいるし、わたしのものは全部あなたのものだ。兄息子はずっと父親のそばにいましたが、父親の気持ちが分かりませんでした。また、父親のそばにいる自分がどんなに大きな恵みの中にいるのかを見ていませんでした。兄息子の言葉はどんなに父親の心を傷つけたことでしょうか。
パリサイ人のような宗教家たちはとても真面目で忠実な人たちでした。しかし神の思いが分かっていませんでした。また自分たちがどんなに大きな恵みの中にいるのかを理解しようとしていませんでした。そして罪人が悔い改めるのを、神と共に喜ぶことができなかったのです。
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