chuo@8008amen.com


バックナンバー

旧約聖書
新約聖書
マタイによる福音書
マルコによる福音書
ルカによる福音書
(章) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10
  11 12 13 14 15 16 17
  18 19 20 21 22 23 24
バックナンバー
ヨハネによる福音書
使徒行伝
ローマ人への手紙
コリント人への第一の手紙
コリント人への第二の手紙
ガリラヤ人への手紙
エペソ人への手紙
ピリピ人への手紙
コロサイ人への手紙
テサロニケ人への第一の手紙
テサロニケ人への第二の手紙
テモテへの第一の手紙
テモテへの第二の手紙
テトスへの手紙
ピレモンへの手紙
ヘブル人への手紙
ヤコブの手紙
ペテロの第一の手紙
ペテロの第二の手紙
ヨハネの第一の手紙
ヨハネの第二の手紙
ヨハネの第三の手紙
ユダの手紙
ヨハネの黙示録
ルカ 10章1〜16節     2019年6月1日

収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。(2)

 主イエスは、九章では十二弟子に権威を授けて送り出されたのですが、この十章では別に七二人を選んで二人一組で遣わされました。主イエスは収獲が多いということを知っておられました。福音を聞いたなら、神に立ち帰って信じる人たちがたくさんいるのです。少ないのは働き人です。働き人が必要です。だから働き人を送り出してくださるように神に求めるのです。しかし、それは誰かを送ってくださいということであると共に、あなたも主の福音を携えて出ていくということを含んでいます。主はメッセージを与え、権威を与え、またすべての必要を満たして、私たちを支えてくださいます。
 私たちがゆだねられているのはとてもすばらしいメッセージです。それは信じる者にすばらしい救いを与えるメッセージだからです。ただ同時に、私たちが伝える主イエスの救いを拒んでしまったら、他にはどこにも救いはないのです。

ルカ 10章17〜20節     2019年6月2日

しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。(20)

 主イエスに遣わされた七二人の弟子たちは、喜びにあふれて伝道旅行から戻って来ました。主イエスの御名によって命じると、悪霊までもが彼らに従いました。彼らはまさに神の力が自分たちを通して働いていくのを見、また経験したのです。
 主イエスもまた、サタンが電光のように天から落ちるのを見たとおっしゃいます。彼らにゆだねられている権威は本当に力にあふれたものでした。
 しかし同時に主イエスは、興奮している弟子たちに、神様の力が与えられ、悪霊を追い出す力を授かったことを喜んでいてはいけないと語られます。力を持ったり、人から感謝され、賞賛されることよりも、もっと重要で、もっとすばらしいことがあります。それは私たちの名前が天にしるされていることです。私たちが主を信じて救われ、天に名を記されたということにまさる大きな祝福はありません。

ルカ 10章21〜24節     2019年6月3日

そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。(21)

 主イエスは、宣教旅行から戻って来て、喜んで報告している弟子たちを見ながら、聖霊によって喜びにあふれて神様をあがめ賛美をささげられました。主イエスのそばにいた人たちは特別に学問を積んでいたとか、財産を持っていたとか、社会的な信用を持っていたとかいうことではなかったでしょう。かえって無学で、地位も低い、ごくごくありふれた人たち、いわば幼な子のような者たちでした。しかし、神様はご自身の栄光をそのような人々にあらわし、彼らを通して神様の御業を明らかにされたのでした。
 弟子たちが見ていたこと、聞いていたこと、そして主イエスと共にいて経験していたことは本当にすばらしいことでした。旧約聖書の時代の多くの預言者たちも王たちもずっと見たいと思っていたことです。まさに人々がずっと待ち望んでいた救い主がこの時、まさに彼らの目の前におられたのです。

ルカ 10章25〜28節     2019年6月4日

彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。(27)

 主イエスのところにひとりの律法学者がやって来ました。彼は主イエスを試みようとしてきたのです。彼の質問は、「先生、何をしたら永遠の命が受けられるでしょうか」ということでした。彼の中には主イエスの学問的なレベルをテストしてみようということがあったかもしれませんし、また、主イエスの答えの中から何らかの失言を引き出そうということもあったでしょう。また、話題の主イエスと直接向き合って、主イエスの意見を聞いてみたいという純粋な動機も少しはあったかもしれません。
 しかし、主イエスは逆にこの律法学者に尋ねられます。律法にはどう書いてあるか。あなたはどう理解するか。律法学者としては、この主イエスからの質問に「分かりません」とは言えません。彼は神を愛するということと、隣り人を愛するということ、と答えます。まさに主イエスも同意見でした。ただ正解を知っているということと、本当にそのように神を愛し、人を愛して生きるということは別のことなのです。

ルカ 10章29〜37節     2019年6月5日

だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか (36)

 律法学者は主イエスを試みようとする自分のたくらみがうまくいかなかったことから、さらに質問をします。それは「わたしの隣り人とは誰ですか」という問いでした。それに対して、主イエスは「良きサマリヤ人」と呼ばれる有名なたとえ話で答えられます。ある人が、エルサレムからエリコに下る寂しい道で強盗にあい、半殺しにされて傷だらけで倒れていた。このまま放置されたら死はまぬかれない状況です。そこに祭司が通り、レビ人が通ります。彼らはこの強盗に襲われた旅人に気づいたのですが、見て見ぬ振りをし、かえって関わりを避けるかのようにして、向こう側を通って通り過ぎていったのでした。しかし、そこに一人のサマリヤ人が通りかかります。この当時、サマリヤ人とユダヤ人はお互いに敵対していました。しかし、そのサマリヤ人は彼に近づいて、彼を助け、宿屋に連れていって介抱し、その後の面倒もみると約束してくれたのでした。主イエスはこの強盗に襲われた人の隣り人になったのはだれかと問われました。そして「この人は自分の隣り人かどうか」ということではなく、「あなたが助けを求めている人の隣り人になるように」と迫られました。そして主イエスこそが私たちの隣り人になってくださったのです。

ルカ 10章38〜42節     2019年6月6日

マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。(41〜42)

 福音書の中には何度か、この姉妹のことが出てきます。彼らはエルサレムの東側の町ベタニヤの人で、ラザロという弟もいました。ベタニヤはエルサレムに近い町でしたので、主イエスがエルサレムに行かれるときには彼らの家を定宿にされたのだとも言われています。
 姉妹にとって、主イエスとその一行を迎えるということは、喜びであるとともに、大変なことでもあったはずです。マルタはその接待に忙しくしていました。そんな中、マリヤは主イエスの足もとに座って御言に聞き入っていたのでした。
 忙しさに心を取り乱してしまったマルタは思わず、主イエスにマリヤのことを訴えます。しかし、主イエスは「マルタ、マルタ」と呼びかけながら、心を配るべき多くのことがあったとしても、なくてならぬものは多くはない、ただ一つだ、とおっしゃったのでした。それは主イエスの御言を聞くということです。私たちはそのなくてならぬただ一つのことを見失っていないでしょうか。



礼拝メッセージ
毎週日曜日の
礼拝での
メッセージから


生活の処方箋
日々を楽しく過ごす
ためのヒントが
ここに