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ルカ 13章1〜5節 2019年6月24日 |
それらのガリラヤ人が、そのような災難にあったからといって、他のすべてのガリラヤ人以上に罪が深かったと思うのか。・・・そうではない。あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びるであろう。(2〜3) ユダヤを治めていたローマの総督ピラトがエルサレムの水道工事のための費用を神殿にささげられたものから捻出しようとした時に、聖なるものをそのような公共工事に用いることは許されないと強硬に反対したガリラヤ人たちがいたと言います、彼らは神殿に逃れたのですが、ローマ兵によってそこで殺されたのだと言います。人々は神殿で犠牲の動物の血と、彼らの血が混じったことを見て、彼らがそのような死に方をしたのは彼らの罪深さのゆえだと言ったりしました。またエルサレムのシロアムの池の側らにあった塔が倒れて、十八人が死んだ事件でも、その被害者に対して、心ない言い方をする人たちがいました。
しかし、そこにあるのは、自分はそこまで罪深くない、ということだったかもしれません。けれども、主イエスは、罪深いのは、罪を悔い改めなければならないのは、あなたがたの方だと指摘されるのです。
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ルカ 13章6〜9節 2019年6月25日 |
すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。それで来年実がなりましたら結構です。もしそれでもだめでしたら、切り倒してください』。(8〜9) ある人が自分のぶどう園の中にいちじくの木を植えました。その主人はいちじくをとても楽しみにして、毎年実がないか、確かめに来たのですが、実を見ることができません。そこで、園丁に、この実を結ばないいちじくの木を切ってしまえ、と言いました。しかし、園丁は、主人にもう一年待ってほしい、もう少し世話をしてみるからと答えたのでした。
この主イエスのたとえ話から学ぶのは、私たちが今、こうして許されてあるのは、主のあわれみと、主イエスのとりなしのゆえだということです。私たちが正しいからではありません。主はあわれみを注いで下さっているのです。けれども同時に、ここにあるもう一つのメッセージは、やがてストップが告げられる日が来るということです。だから今のうちに悔い改めて、主に従いつつ、実を結ぶものとしていただく、そのように生きることが大切なのです。
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ルカ 13章10〜17節 2019年6月26日 |
イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。(12〜13) 主イエスは安息日に会堂に入って、そこで教えておられました。そこに十八年間も病気の霊にとりつかれて、かがんだままで体を伸ばすことができない女がいました。主イエスは彼女に手を置いて、「女よ、あなたの病気はなおった」と宣言されました。すると彼女はたちどころに体を伸ばして、神をたたえ始めたのでした。
ところがそれを見ていた会堂司は「安息日にはいけない、他の日になおしてもらいなさい」と注意します。しかし、主イエスは安息日であっても、自分の牛やロバを解き放って水を飲ませてやるではないかと、彼らのしていることの矛盾をつきつけられたのでした。主イエスにとってはこの女は、十八年間もサタンによって縛られていた者でした。主イエスは安息日であっても、彼女を自由にしたかったのです。彼女はまさに悪魔の力から自由にされて、主をあがめる生涯を取り戻しました。主イエスはまさに今日、それをしたいとおっしゃったのです。
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ルカ 13章18〜21節 2019年6月27日 |
神の国は何に似ているか。またそれを何にたとえようか。一粒のからし種のようなものである。ある人がそれを取って庭にまくと、育って木となり、空の鳥もその枝に宿るようになる。(18〜19) 主は神の国の到来を告げられました。人々はサタンの支配から解放され、神の御支配の中に生きるようにと招かれていました。主イエスが宣言された神の国は、最初は小さいかもしれません。からし種というのはゴマ粒より小さく、ケシ粒(またはコスモスの種)ほどの大きさの種です。しかし、からし種はまかれると大きな木のようになり、空の鳥がそれに宿るほどになるのです。そのように小さな神の国もやがて大きく成長します。パン種(イースト菌)も少量だけでパン生地全体をふくらませます。神の国は世界全体に影響を与えていくのです。
主イエスが来られて、語り、神の国を自らの生涯を通して明らかにして行かれた時に、人々はいやされ、また賛美を始めていきました。サタンに捕らわれていた人々が解放され、神の御名がたたえられました。そしてその神の業はさらに大きな拡がりを持って宣べ伝えられ、広がっていったのです。
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ルカ 13章22〜30節 2019年6月28日 |
狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。(24) ある人がイエスさまのところに来て問いました。「主よ、救われる者は少ないのですか」。日本でクリスチャンとして生きている私たちにとってはまさに共感できる問いでしょう。確かに教会に集う人は必ずしも多くありませんし、また主イエスを信じて加わってくる人たちも少数です。
確かにこの直前の箇所で主イエスは、神の国が小さく始まっても、大きく成長し、大きな影響を及ぼして行くことを告げられました。しかし同時に、それが「狭い戸口」であるということも事実です。どれだけ多くの人たちが集まっていたとしても、私たちは狭い戸口を入って行かなければなりません。だれでも救われるというのではありません。救われるのは、主イエスというただ一つの救いの門を通って入る人たちだけです。他には天国に続く道はありません。どれだけ努力したか、どれだけ真面目に生きたかではありません。主イエスを信じる人だけが救われるのです。
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ルカ 13章31〜35節 2019年6月29日 |
ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。(34) あるパリサイ人たちが主イエスに耳打ちします。「ヘロデがあなたを殺そうとしているから。早くここから出て行った方がいい」。彼らが本当に親切心でそのことを言ったのか、または主イエスを自分のいる場所から早く追い払いたかったのかはわかりません。しかし、主イエスはご自身がエルサレムで死ぬことを知っておられました。主イエスは人々の罪を負ってあがないの死を遂げることになっていたからです。
しかし、主イエスはエルサレムのために嘆かれます。「ああ、エルサレム、エルサレム」。その叫びはまさにあのダビデ王が自分に反旗を翻した息子アブサロムの死を嘆いた叫びを思わせます。エルサレムは神の愛しておられた都で、神は何度も悔い改めを迫り、その翼でエルサレムを覆おうとされたのでした。しかし、エルサレムは救い主を受け入れることを拒みました。そして神の子なるお方がその都で殺されようとしていたのです。
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