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ルカ 16章1〜13節 2019年7月9日 |
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。(10〜11) とても分かりにくいたとえの一つです。ここでたとえを理解する時に覚えておきたいのは、たとえは伝えたい一つのメッセージを伝えるために語られているということです。ですから細かいところに目を奪われてしまうと、一番大切な真理をくみ取りそこなってしまいます。
この不正な家令の話のポイントは彼は自分のゆだねられているものを利口に用いたということです。彼は自分が自由にできることを最大限に用い、今、この時に得かどうかではなく、これから先のことを考え、長く自分のためになることは何かを思って、友だち作りをしたのでした。
主イエスはこのたとえで不正を許容したり、推奨しておられるのではありません。この世の富に対して忠実でなかったら、どうして真の富をまかせることができるかとおっしゃるのです。日ごとの仕事や学校生活・家庭生活においても忠実な歩みをしていきたいと思います。
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ルカ 16章14〜18節 2019年7月10日 |
しかし、神はあなたがたの心をご存じである。(15) 主イエスが「神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたとき、欲深いパリサイ人は主イエスのことをあざ笑いました。彼は神に仕えながら、同時に、富をも愛していました。富を愛することと神を愛することは両立することと考え、自分はそれを両立していると考えていたのでしょう。彼は自分の心が富に向いていることに気がついていませんでした。しかし、神は私たちの心をご存じです。私たちは神が私たちの心をどのように見ておられるかをいつも知らせていただきたいと思います。
16節にある「律法と預言者」とは旧約聖書のことです。旧約聖書はまさに救い主が来られるという預言と期待と希望の書です。しかし、バプテスマのヨハネ以降の時代は旧約聖書によって約束された時が成就するという喜びの時代です。すでに神の国は開かれ、多くの人たちが神の国に突入しています。それは律法を否定するような新しい時代が来たということではなく、旧約聖書によって証しされ、約束されていたことが成就したということです。神は私たちの心を新しくしようとしておられるのです。
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ルカ 16章19〜31節 2019年7月11日 |
もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう。(30) 「ラザロと金持ち」というたとえ話です。主イエスの時代の人々は、金持ちは神から愛され祝福をいただいていると思っていました。そのような理解から言うと、この金持ちは神の祝福をいただいており、ラザロは神から見捨てられているということになります。しかし事実は違っていて、二人が死んだ時、ラザロは御使いたちに連れられてアブラハムのふところに行って慰めをいただき、金持ちは黄泉に行って苦しんでいました。
金持ちは苦しみながら目を上げてアブラハムのふところにいるラザロを見ます。しかし、気がついたときにはもう遅すぎました。金持ちはラザロを自分の兄弟たちのところに送って、彼らがこんなところに来ないように警告してほしいと言います。しかしアブラハムはこの金持ちに、「モーセと預言者」(旧約聖書)を与えられているのに信じない人は、誰かが生き返っても信じない、と断言したのでした。私たちは与えられている御言をしっかり受けとめ、信じ、従う者でありたいと思います。
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