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マルコ 16章1〜8節 2019年3月31日 |
するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない・・・」。(6) ユダヤ人たちにとっては一日は日没で始まり、日没で終わります。金曜日の日没に始まった安息日が土曜日の日没で終わったとき、女たちは主イエスの体に塗る香料を買い求め、朝になったら主イエスの墓に行って、もう一度きちんと葬りの時をもちたいと思っていました。そして週の初めの日、日曜日の朝早く、女たちは墓に向かいます。しかし、墓に着くとすでに入り口に置かれていた大きな石はころがされていました。主イエスはよみがえられたのです。墓は主イエスを閉じ込めておくことはできませんでした。女たちが思い描いていたのは墓の中に冷たく横たわっている主イエスの遺体でした。しかし、主イエスはすでにそこにはおられませんでした。主イエスはよみがえられたからです。
天使は「弟子たちとペテロとの所に行って、こう伝えなさい」と女たちにメッセージを託します。それはペテロにとってどんなに大きな慰めだったことでしょう。
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マルコ 16章9〜14節 2019年4月1日 |
その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。(14) 9〜20節はカッコでくくられています。これはこの部分が古いいくつかのギリシャ語の写本にないことを意味しています。ただ、同時に教会の歴史の中では、この追加された部分も含めてとても大切に受け継がれてきました。今日の箇所には、復活された主イエスに出会ったマグダラのマリヤやいなかの方に歩いていたふたりの弟子たちの言葉を、他の弟子たちが信じなかったということが繰り返されています。確かに、主イエスが十字架につけられる前にも、主イエスはご自身の受難と共に、復活についても語っておられました。ただ主イエスの受難についても受けとめられなかった弟子たちにとって、その受難の向こうにある復活はなおさら受けとめられなかったのかもしれません。
けれども主イエスはそんな弟子たちにご自身をあらわし、彼らの不信仰をお責めになったのでした。主は確かによみがえられたのです。
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マルコ 16章15〜20節 2019年4月2日 |
その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。(20) よみがえられた主イエスは弟子たちに大宣教命令を与えられます。これは十二弟子たちだけに託された使命ではありません。私たちもまた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を伸べ伝えよ」という命令を主からいただいているのです。
主イエスはやがて弟子たちの見ているところで天に上げられ、神の右の座につかれました。そして弟子たちは、主イエスから言われたように、至るところで福音を宣べ伝えたのでした。そして弟子たちが主イエスの福音を宣べ伝えた時、主もまた弟子たちと共に働いてくださいました。そして弟子たちが伝えた福音が確かなものであることが明らかにされていったのです。
私たちが福音を宣べ伝える時にも、主は同じように、私たちと共に働いてくださいます。そして御言が確かなことを私たちの生涯の中に、また聞いて信じる人たちの生涯の中にあらわしてくださるのです。
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