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マルコ 14章1〜11節 2019年3月19日 |
なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。・・・この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。(6、8) 祭司長たちや律法学者たちといった宗教家たちは、主イエスを捕らえて殺してしまおうと策略を練っていました。また、主イエスの十二弟子のひとりのイスカリオテのユダはお金をもらって、主イエスを引き渡そうとしていました。ある意味、主イエスが十字架において私たちに対して愛を示そうとしておられる中で、まずます人々の罪の深さが明らかにされていきます。
そのような時に、一人の女性が「高価で純粋なナルドの香油」を主イエスに注ぐという出来事が起こります。それは一年分の給与に相当するかというようなもので、そこにいた人々は「むだだ」と彼女を非難したのでした。しかし、彼女の行為は十字架を直前にした主イエスを深く慰めることになります。主イエスは彼女は「わたしによい事」「できる限りの事」をしたとおっしゃいます。誰にもまして主イエスは人間的には無駄でもったいないと思えるようなことをしようとしておられたからです。
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マルコ 14章12〜21節 2019年3月20日 |
弟子たちは出かけて市内に行って見ると、イエスが言われたとおりであったので、過越の食事の用意をした。 (16) 木曜日のことです。その日は過越の祭の始まりの時でした。過越の祭においては、パン種(イースト菌)を家の中に置いたり、イースト菌を用いてふくらませたパンを食べたりしてはいけないことになっていました。イスラエルの人たちは、エジプトで奴隷であった所から救い出されたことを記念して、最初の時のように小羊を苦菜を添えて食べたり特別な食事をすることになっていました。主イエスは弟子たちとその過越の食事を共にされされました。主イエスはすでにその食事の席を整えてくださったのでした。主イエスと弟子たちがこの食事をした二階座敷は、後にペンテコステを前にみんなが集まって祈っていた部屋であり、後にクリスチャンたちがそこによく集まって祈った家の教会になったとも言われています。
主イエスは、弟子たちの中のひとりが主イエスを裏切ろうとしているとおっしゃいます。主イエスは最後の最後までイスカリオテのユダに悔い改めるチャンスを差し出しておられたのです。
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マルコ 14章22〜25節 2019年3月21日 |
イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である」。(24) 主イエスは十字架につけられる前の夜の過越の食事の席で、「聖餐式」を制定されました。プロテスタント教会ではこの聖餐式と洗礼式を、大切な二つの礼典として守っています。主イエスはパンを取り、祝福してこれを裂き、弟子たちに与えて、「これはわたしのからだである」とおっしゃり、またぶどう酒の入った杯をとって、「わたしの血」「多くの人のために流す契約の血」とおっしゃいました。主イエスはその翌日には十字架にかかって死のうとしておられました。しかし、それは単なる非業の死ではなく、そこで裂かれるからだ、流される血は、信じる者たちのために与えられるものだったのです。主イエスの血によって新しい契約が結ばれました。それは主イエスをただ信じるだけで救われるという神の約束でした。そしてまさにパンが裂かれ、ぶどう液が配られるときに、私たちはそこに主がご臨在しておられることを知ります。そして、私たちはやがて神の国で再び主イエスと顔と顔を合わせてお会いする日を待ち望むのです。
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マルコ 14章26〜31節 2019年3月22日 |
「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであろう』と書いてあるからである。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。(27〜28) 主イエスはまた弟子たちに対して、彼らが皆、自分につまづくと予告されました。主イエスの十字架はある意味で大きなつまずきでしょう。そしてこの十字架と復活のつまずきは取り除かれてはいけません。どんなにそれが人間にとって分かりにくいもの・受け入れづらいものであったとしても、十字架を薄めたり、十字架のメッセージを何かの道徳的な教えとすりかえてはいけないのです。逆に、教会には主イエスの十字架以外のつまずきがあってはならないと思います。みんなの者がつまずいてもわたしはつまずきませんと言い切ったペテロも含めて、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げていくことになります。
しかし同時に、主イエスはご自身がよみがえられること、また主イエスにつまずき、主イエスを見捨てて逃げていく弟子たちが回復され、また再びガリラヤで再会するということを約束しておられたのでした。
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マルコ 14章32〜42節 2019年3月23日 |
「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。(36) 主イエスはさんびを歌って、ゲッセマネの園にやってきます。その場所は主イエスが弟子たちとしばしば時間を過ごされた場所でした。ゲッセマネの園はエルサレムの神殿と谷を挟んで東側の斜面にあったオリーブの木の植えられている場所で、その場所から神殿を見ると、神殿とエルサレムの町の全景を見渡すことができました。主イエスは、ペテロとヨハネとヤコブを連れてさらに奥に入って行かれ、そこで恐れ、おののき、悩み、悲しみながら祈られました。「この杯」とは主イエスがこれから経験しようとしておられた十字架の苦しみのことです。主イエスは怖かったので、苦しみの祈りをされたのではありません。主は、私たちの罪を負って、十字架で贖いの死を全うするということが、私たちの身代わりに神に捨てられ、裁かれることなのだということを知っておられたのです。主イエスだけが罪の本当の恐ろしさを知っておられます。しかし、主は父なる神のみこころにご自身をゆだねてくださったのでした。
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マルコ 14章43〜52節 2019年3月24日 |
「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日あなたがたと一緒に宮にいて教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし聖書の言葉は成就されねばならない」。(48〜49) 主イエスが祈り終えて立ち上がられたとき、そこにイスカリオテのユダが剣や棒を持った群衆を引き連れてやって来ました。そしてイスカリオテのユダは接吻をもって主イエスを裏切り、主イエスは捕らえられたのでした。主イエスのことを捕らえようとすれば主イエスは毎日宮で教えておられたのですから、わざわざ夜でなくても良かったと思います。しかし、彼らは闇の中で主イエスを捕らえました。それは聖書に書いてある通りに、私たちを救うためにこの世に来てくださったイエスさまにといってどうしても必要なことでした。
弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げていきます。つい数時間前に自分たちが語っていたことをすっかり忘れてしまったかのようです。あとから亜麻布をまとってついて行って、裸で逃げていった若者は、この福音書の執筆者であったマルコだったのではないかとされています。しかし、主イエスを見捨てて逃げていった人たちが再び、弟子として生きていくようになるのです。
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マルコ 14章53〜65節 2019年3月25日 |
大祭司は再び聞きただして言った、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。イエスは言われた、「わたしがそれである。あなたがたは人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。(61〜62) ユダヤ人議会が招集されます。そこで主イエスは神を冒?する者として訴えられ、裁判にかけられます。多くの人たちが立って主イエスに対して偽証を立てます。もちろん、偽証も十戒に対する違反です。ですから、宗教家たち自身は偽証せず、自分たちの筋書きに沿って偽証を立てる人々を捜すのです。しかし、証言が合わない中で、ついに、決定的な問いが投げかけられます。「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」。
主イエスは「わたしがそれである」とおっしゃいます。これは主イエスがまさに旧約聖書においてご自身をあらわされた神であることを示していました。
ボールは宗教家たちの方に投げられました。この宗教家たちのように、主イエスのことを嘘つきだと断罪するのか、または主イエスがおっしゃるように、この方こそが神の子・救い主、やがてきたるべきお方だと信じ、受け入れるかです。
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マルコ 14章66〜72節 2019年3月26日 |
ペテロは、「にわとりが二度鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、そして思いかえして泣きつづけた。(72) ペテロは遠くから主イエスについていき、大祭司の中庭に潜入することに成功しました。ただ思いがけないことが起こります。大祭司の女中のひとりがペテロを見つめて「あなたもナザレのイエスと一緒だった」と言い出したのです。ペテロはそのことを否定し、とっさにシラを切りました。しかしペテロは人々の話や、その視線がとても気になるようになります。彼は二回、三回と主イエスを拒み、主イエスのことを知らないと断言し、誓い始めたのでした。するとにわとりが二度目に鳴きました。
ペテロはその時、ハッとします。主イエスの言葉を思い起こしたのです。そして主イエスの言葉を思い起こして泣き続けたのでした。
ペテロは大失敗をしました。彼はここで自分がどんなに弱く小さい者であるかを思い知らされたことでしょう。しかし、ここでペテロにとっての救いは、彼が主イエスの言葉を思い起こしたことです。主イエスの言葉は私たちに命を与えるのです。
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