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マルコ 7章1〜16節 2019年2月15日 |
この民は、口さきではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。(6) またエルサレムからパリサイ人たちと律法学者たちと
がイエスさまのところにやってきました。彼らは主イエスの噂を聞きつけて、事の真相を確かめに来たのでしょう。主イエスについて熱狂的に語る人々の言葉が伝わってくる中で、ある意味、冷静に主イエスについて評価をしようとしていたのでしょう。ただ、少なくとも、彼らの中には、謙虚に主イエスに聞いて、主イエスを信じようという開かれた心はまるでありませんでした。彼らはまさに、自分たちの考える正しさ、自分たちの考える良い生き方を基準にして、主イエスや弟子たちを裁こうとしていました。
彼らは律法を守るのに非常に熱心で、律法に多くの解説や細則を付け加えていました。そして先祖から伝わった言い伝えにも熱心でした。しかし、いつの間にか、彼らは律法の本質を見失い、自分を自分で義とする者となっていました。「その心は遠くわたしから離れている」・・・イザヤの時代の主の嘆きはこの時代も同じでした。
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マルコ 7章17〜23節 2019年2月16日 |
すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである。(21〜23) 主イエスの時代の宗教家たちは自らを汚さないことにとても神経を使っていました。そこで彼らが問題にしたのは、宗教的に汚れているとされているものを口にしないとか、手を入念に洗って、汚れを体内に取り込まないようにするとか、汚れたものに触れないというようなことでした。しかし、主イエスはここで、汚れとは自分の外側にあるのではなく、実は人の中にあるのだと語られます。ここで主イエスが語られた罪のリストは、とても具体的なことがらです。しかし、たとえば、盗みにしても、殺人にしても、姦淫にしても、人の心の中にまずあるのだと主イエスはおっしゃるのです。もちろん、実際に盗むのと、思いはあっても実行しないで思いとどまるのが同じだとは言いません。しかし、実際にそれを実行しなかったとしても、心の中から始まっているとしたら、私たちはそれらの罪や汚れから自由でしょうか。そして、私たちの心を清くするのは主イエスの恵みだけです。
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マルコ 7章24〜30節 2019年2月17日 |
女は答えて言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」。(28) 主イエスは弟子たちを連れてツロの地方に行かれました。そして主イエスは家の中にいて身を隠しておられたようです。もともとツロにはユダヤ人はそれほど多くはなかったと思います。それでも身を隠しておられたのは、主イエスが他の人々にではなく、弟子たちに語り、彼らを教える特別な時を持ちたいと願っておられたからかもしれません。しかし、そこにスロ・フェニキヤ生まれのギリシャ人の女がやって来ます。彼女は主イエスがそこにおられることを聞きつけて、主イエスの足もとにひれ伏して、悪霊につかれた彼女の娘の癒しを求めたのでした。しかし、主イエスは彼女に対してとても冷たいとも聞こえる言葉を投げかけます。「子どもたちのパンを取り上げて小犬にやるのはよくない」。それではまるで、彼女が「小犬」扱いされていることになってしまいます。しかし、彼女は「主よ、お言葉どおりです。でも小犬も食卓から落ちたパンくずはいただきます」と答えます。主イエスの恵みのおこぼれでも十分です、とすがりつくように、主に信頼して求めたのです。主は彼女の信仰に答えて、娘を癒してくださったのでした。
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マルコ 7章31〜37節 2019年2月18日 |
そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。(33〜34) 主イエスがまたガリラヤに戻られた時、そこに耳が聞こえず口がきけない人が連れられてきました。口がきけないというのは、耳が聞こえなかったからかもしれません。聞こえないと話すことは難しいのです。主イエスは彼の耳に指を差し入れ、つばきでこの人の舌を潤して、天を仰ぎ、「エパタ」と語られました。すると彼の耳が開け、舌のもつれも解けてはっきり話せるようになったのです。
私たちが、証しができない、主イエスのことが話せない・・・としたら、問題は舌であると共に、耳かもしれません。神が語っておられる語りかけがはっきりと聞こえなくなっているのです。主が御言葉を通して語ってくださる言葉がよく聞こえると、また主の言葉を語ることができるようになります。主に耳を開いていただきましょう。人々は主イエスについて語ります。「この方のなさったことは何もかもすばらしい」。私たちも主をあがめて歩みたいと思います。
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