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マルコ 3章1〜6節 2019年1月30日 |
イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。(5) 主イエスとパリサイ人たちとの確執がこの章でも続きます。会堂の中に片手のなえた人がいました。イエスさまはこのような場合、体の不自由な人や病気の人を見ると癒すことをされました。主イエスはとてもあわれみ深いお方だからです。そのことはだれもが知っていたことでしょう。ただ問題はその日が安息日だったということです。パリサイ人たちは、もし主イエスが安息日に手のなえた人を癒されたら、安息日に禁じられた労働をしたことになると考えたのです。
しかし、主イエスにとって、安息日は何かをしない日ではなく、善を行い、神のみ旨を行う日でした。また主イエスにとって、癒しとはまさに医療行為ではなく、救いの出来事でした。主イエスは心がかたくなで、表面的にしか物事を見ようとしないパリサイ人たちを怒りをもって見回されます。主イエスはまさに安息日に、この片手のなえた人を救おうとされたのです。
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マルコ 3章7〜19節 2019年1月31日 |
さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。・・・彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。(13〜15) 主イエスのところには近くから遠くからとても多くの人たちが集まって来ました。病気の人たちはイエスさまにいやしていただきたいと押し寄せてきましたし、悪霊につかれていた人たちも、イエスさまによって汚れた霊から解放していただきました。
ただ主イエスは押し迫るおびただしい群衆を教えられただけでなく、十二人の弟子たちを選んで、特別に訓練されました。この十二弟子の訓練は主イエスの公生涯におけるとても大切な働きでした。彼らを選ばれたのは、彼らを自分のそばに置くためでした。主イエスと一緒に時間を過ごすことで彼らを教えようとされたのです。同時に、イエスさまと一緒にいるというだけでなく、主は彼らを宣教に遣わされ、神の御業をあらわさせられたのでした。主イエスが選ばれたのはとてもユニークなメンバーでした。そして主は同じように、私たちをも選んでくださったのです。
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マルコ 3章19〜30節 2019年2月1日 |
よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる。(28〜29) 主イエスのまわりにはいつも人々が集まっていて、休む暇がないほどでした。またエルサレムから評判を聞きつけて調査に来た律法学者たちは、主イエスのことを悪霊のかしらにとりつかれていると断罪しました。そのような噂を聞いた主イエスの身内の者たちは、イエスが気が狂ったと心配して、連れて帰ろうとやって来ました。
けれども、「主イエスが悪霊を追い出しているのは主イエスが悪霊のかしらにとりつかれているからだ」と言う人たちに、主イエスは彼らの理屈のおかしな点を指摘されました。本当は主イエスがしておられることを見たら素直に信じるべきなのです。けれども心をかたくなにして主イエスを拒もうとする人たちの論理はまるで破綻していました。
主イエスは罪をゆるすために来られました。どんな罪でも主はゆるしてくださいます。しかし、聖霊を汚す罪、それは遣わされた主イエスをかたくなに拒むことなのですが、この主イエスを拒んだら他に救いはないのです。
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マルコ 3章31〜35節 2019年2月2日 |
そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。(34〜35) イエスさまを連れ戻そうとしてやって来た家族は、大勢の人たちのために近づくことができなかったのでしょう。人をやって主イエスを呼び出そうとします。「ごらんなさい、あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」との呼びかけに、主イエスは、御自分を囲んで座って、話を聞いている人々を見回して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」とおっしゃいました。私たちもまた同じ主の家族の中に入れられています。
主イエスは肉親を邪険に扱われたのではありません。肉親であっても、また血のつながりがあるゆえになおさら主イエスのことを「救い主」として信じることができない家族たちに対して、ご自身が神から遣わされたメシヤであること信じ、また神のみこころを行うようにと迫られたのでしょう。そして後に、主イエスの家族は主イエスを信じ、教会の中でとても大切な役割を担うようになります。
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