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マルコ 9章1〜8節 2019年2月24日 |
そして、その雲の中から声があった、「これはわたしの愛する子である。これに聞け」。彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた。(7〜8) 「六日の後」というのはペテロの信仰告白の六日後ということでしょう。この日付を弟子たちが覚えていたというのはその場に立ち会った弟子たちにとって、その日がとても大きな意味のある日だったことをあらわしています。
主イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて、高い山に上られました。その山の上で、主イエスの体が変わり、白く輝いたのでした。それはまさに主イエスが父なる神のみそばで持っておられた本来の栄光の御姿を一瞬垣間見させるものだったのでしょう。そこにエリヤとモーセが現れて、イエスと語り合っていました。モーセとエリヤは、イスラエルの危機の時代に民を救った預言者たちです。主イエスは十字架による救いの出来事について、彼らと語り合っておられたのです。
やがて彼らを雲が覆います。そして天からの声の後に彼らが見渡すと、そこには誰もいず、ただ主イエスだけが一緒におられたのでした。主を、ただ主を見つめるお互いでありたいと思います。
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マルコ 9章9〜13節 2019年2月25日 |
しかしあなたがたに言っておく、エリヤはすでにきたのだ。そして彼について書いてあるように、人々は自分かってに彼をあしらった」。(13) 主は、自分がキリストであることも、また弟子たちが山の上で見た輝く栄光の姿も、今は誰にも話すなとおっしゃいました。主イエスは十字架の妨げになるようなことが起こらないように細心の注意を払っておられたのです。そして主イエスがキリストだと言うときに、それではマラキ書の最後にあるエリヤを遣わす(四5)という約束はどうなるのかと弟子たちは尋ねました。主イエスはエリヤはすでに来たとおっしゃいます。マラキが語っていた、キリストが遣わされる前に送られるエリヤとはバプテスマのヨハネのことだったのです。確かにエリヤもバプテスマのヨハネも荒野をすみかとし、毛衣を着て(列王下一8、マタイ三4)いました。そして両者共、権威者を恐れることなく、神の言をストレートに語ったのです。そして、エリヤについてもそうだったように、人々はヨハネのことも自分勝手にあしらったのでした。神の言が語られるときに、喜びと恐れをもってこれを聞き、従う者でありたいと思います。
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マルコ 9章14〜29節 2019年2月26日 |
イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。(23〜24) 主イエスが山の上におられたとき、山のふもとでは大変なことが起こっていました。口をきけなくする霊にとりつかれた子どもをその父親が連れてきて、弟子たちにその悪霊を追い出してほしいと頼んだのですが、それができなかったのです。残っていた弟子たちは律法学者たちからつるしあげられていたのでしょう。
主イエスが帰ってこられた時、その子の父親はことの経緯を説明し、「できますれば・・・お助けください」と申し出たのでした。確かにこれまでもこの父親は何度となく裏切られ、何度となく失意の中に落とされたことでしょう。「もしできれば」という言葉にはそのような彼のこれまでのつらい経験も影響したいたのでしょう。しかし、主イエスは、「もうしできれば、と言うのか。信ずる者にはどんなことでもできる」とおっしゃってこの父親から信仰を求められたのでした。「信じます。不信仰なわたしをお助けください」。この父親は「信じます」と答えます。けれども同時に彼は、不信仰な自分を知って、主イエスの憐れみを求めたのでした。
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マルコ 9章30〜37節 2019年2月27日 |
そこで、イエスはすわって十二弟子を呼び、そして言われた、「だれでも一ばん先になろうと思うならば、一ばんあとになり、みんなに仕える者とならねばならない」。(35) 弟子たちはカペナウムに戻る途中、道々、誰が一番偉いかということについて熱く論じていました。イエスさまに問われたときに、彼らが黙っていた、と書かれていることから、弟子たちの中にも多少のやましさ、主イエスはこの議論を喜ばれないという認識があったのだろうとは思います。ただ主イエスが、自分をメシヤだと示された後は、なおさら弟子たちはこの議論に忙しくなります。主イエスが王になられたら、誰が主イエスの一番の側近になるのかということは大問題だったからでしょう。
主イエスは一ばんになろうと思うことを禁じることはなさいませんでした。一ばんになろうと思うのなら、一ばんあとに、みんなに仕える人になれと語られたのです。いつの間にか一ばんになろうとすることで、小さい者、弱い者に目が行かなくなる弟子たちに、幼な子のひとりをも受け入れ大切にするようにと、主は語られたのでした。
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マルコ 9章38〜50節 2019年2月28日 |
塩はよいものである。しかし、もしその塩の味がぬけたら、何によってその味が取りもどされようか。あなたがた自身の内に塩を持ちなさい。そして、互に和らぎなさい。(50) イエスさまの名前を使って悪霊を追い出している人がいました。それに気がついたヨハネはその人をやめさせ、また主イエスに報告しました。しかし、主イエスはわたしに反対しないものは私の味方であるとおっしゃり、また、キリストの弟子に水一杯でも飲ませてくれる者は必ず報いを受けるだろうとおっしゃいました。主は小さな愛のわざをも覚えていて下さると共に、主イエスを信じる小さな者をひとりでもつまづかせるなら裁きを受けるだろうとおっしゃいました。主は本当に小さい者を愛していてくださるのです。
塩で味付けられた言葉を使うのはとても大切です。しかし、それは自分の正しさを主張し、人の間違いを裁くということではなく、人を生かし、人と人との間に平和をもたらすような言葉であるべきです。言葉は人を生かしたり、殺したりします。人を豊かにする言葉を語る者でありたいと思います。
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