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マルコ 8章1〜10節 2019年2月19日 |
「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。・・・なかには遠くからきている者もある」。(2〜3) 主イエスと一緒にいると、その場から立ち去りたくなくなるものです。主イエスのなさることを見、また主イエスが語られる恵みの言葉を聞いていると、ずっとそこにいたいとみんなが思ったのでしょう。この時にも、群衆は三日間主イエスと一緒にいました。主はここで群衆の空腹のことも心配してくださったのです。主は私たちの魂のことだけでなく、私たちの体のことも心配してくださっています。
この時、そこにあったのは七つのパンと小さい魚が少しだけでした。しかし、主はそれを手に取り、祝福して弟子たちに渡されたのでした。その日も四千人の人たちが満腹しました。そこにあるものがどんなに小さく、また少しであっても、主の手の中に置かれて、主がそれを祝福してくださったら、多くの人たちを満腹させるような豊かな祝福がそこに生まれてきます。そして、主のお手伝いをする私たちも共にその祝福にあずかることになるのです。
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マルコ 8章11〜21節 2019年2月20日 |
そのとき、イエスは彼らを戒めて、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とを、よくよく警戒せよ」と言われた 。(15) 私たちは知らず知らずのうちに目に見えるものに縛られてしまいます。しるしを求めるとはまさにそういうことです。何か目に見える不思議なこと、特別な経験にすがろうとするのです。けれどもしるしを見なければ信じないと言う人は、見てもやっぱり信じないでしょう。
またパリサイ人の生き方、その教えにひかれる人たちもいました。彼らは自分の真面目さや自分の努力によって神の国を得ることができるかのように誤解していました。そのようにして、自分の正しさを誇り、人々を裁いていたのです。またヘロデのようにこの世の地位やこの世の富に固執する人たちもいました。彼らは確かにこの世では権力を握っていたかもしれませんが、目に見えない世界にはまるで興味がないかのようでした。
こういった様々な曲がった教えは一見、魅力的に見えるかもしれません。そしてそういった間違った教えを心の中に受け入れると、最初は小さいかもしれませんが、やがては私たちの思いや生き方に大きな影響を与えてしまうのです。
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マルコ 8章22〜26節 2019年2月21日 |
それから、イエスが再び目の上に両手を当てられると、盲人は見つめているうちに、なおってきて、すべてのものがはっきりと見えだした。(25) 主イエスはその生涯の中で、何度も目の見えない人を見えるようにされました。そしてあるときには生まれつきの盲人が直ちに見えるようになるという奇跡を行われたこともあります。ただここでは主イエスは直ちに癒されたのではなく、徐々に見えるようになるという奇跡を行われたのでした。この盲人は見つめているうちに見えるようになり、やがてはっきりと見えるようになったのです。
私たちの心の目が開かれるという時にも、今まで分からなかったことが主の恵みによって直ちに見えるようになるということもあるのですが、少しずつ分かってくるということもあります。見つめているうちに見えるようになっていき、やがてすべてのものがはっきり見えるようになっていく。私たちも主イエスを見つめていたいと思います。すると次第次第にすべてのものがはっきりと見えるようにされていくのです。
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マルコ 8章27〜30節 2019年2月22日 |
そこでイエスは彼らに尋ねられた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「あなたこそキリストです」。(29) 主イエスは弟子たちを連れてピリポ・カイザリヤの地方に行かれました。これは異邦人の地であり、ガリラヤ湖の北側、ヨルダン川の源流にあたる地方です。そこには異教の神殿があり、また皇帝礼拝の神殿があったと言われています。主イエスは弟子たちにまず、「人々はわたしをどう言っているか」と尋ねられます。弟子たちは人々の評判について、イエスさまに語ります。しかし、次に主イエスは「それではあなたがたはわたしをだれと言うか」と問われたのでした。
人がイエスさまについてどう言っているか・・・主イエスは人々の評価や多数決によって、その本質が決まっていくのではありません。あなたのそばにいる誰かがイエスさまについてどう考えているかでもありません。大切なのは、あなたが主イエスをどう見、またどのようなお方として理解しているかということです。「あなたこそキリストです」お答えして、このお方に従っていきたいと思います。
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マルコ 8章31〜38節 2019年2月23日 |
だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(34) 昨日読んだペテロの信仰告白は主イエスの公生涯の大きな転換点になりました。ある意味、主イエスは、よし準備はできた、と考えられたのでしょう。主イエスはこの時から受難と復活の予告を始められたのでした。ただ、主イエスがキリスト、約束された救い主であることを理解していた弟子たちも、主イエスの受難を受けとめることはできませんでした。ペテロは主イエスを脇へ引き寄せ、いさめ始めます。
しかし、主イエスは振り返り、弟子たちを見つめてペテロを叱りつけられました。ペテロの背後に、主イエスを十字架から引き離そうとするサタンの陰を見たのでしょう。もちろんペテロには何の悪意もなかったことでしょう。しかし、彼の人間的な主イエスへの愛情はサタンに利用されていたとも言えます。
十字架を避ける道はサタンの道です。それは主イエスにとってというだけではありません。私たちにとってもそれは大きな誘惑です。だから主イエスは、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさいと語られるのです。
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