バックナンバー
|
マルコ 6章1〜6節 2019年2月10日 |
そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。(5〜6) 主イエスはガリラヤ湖畔から内陸部のナザレに行かれました。そこは主イエスが両親と共に住んだ町であり、そこには、主イエスとその家族のことを知っている人たちが大勢いました。大工をしていた父ヨセフや、主イエスに仕事をしてもらった人たちもいたことでしょう。
安息日に、主イエスがナザレの会堂で教えられたとき、ナザレの人々にも、主イエスのメッセージが非常に優れたものであることは分かりました。ですから彼らは主イエスのメッセージを驚きをもって受けとめたのです。
しかし、彼らはその知恵の言葉を語られる「お方」を信じることはできませんでした。彼らにとって、あくまでも、主イエスは大工の子であり、マリヤの長男でした。
主イエスは彼らの不信仰を驚き怪しまれ、そこでは力あるわざを行うことができませんでした。主イエスは血からあるお方です。しかし、同時に、主イエスの御業を拝するために、主は私たちに信仰を求められるのです。
|
マルコ 6章6〜13節 2019年2月11日 |
また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たないように命じられた。(7〜9) 主イエスは十二弟子を呼び寄せ、二人一組で町々村々に送り出されました。弟子たちは主イエスと一緒の時にはとても気持ちが大きくなったでしょうけれど、二人だけででかけていくのにはとても不安があったことと思います。けれども主は彼らにご自身の権威を与えて出て行かせられたのでした。
それとともに、主イエスはパンも袋も、お金も、着替えも持っていくなと語られました。私たちは目に見えるものに頼りたいものです。だからこそ、主イエスは彼らに何も持っていくなと語られたのです。何がなかったとしても、彼らを遣わし、彼らと共にいてくださる神は、彼らの必要を備えてくださるし、彼らを支えてくださる・・・弟子たちはそのことを実地で学ぶ必要がありました。何がなかったとしても、彼らには主イエスの権威が託されている・・・それさえあれば大丈夫、弟子たちはそのことをしっかり学ぶことになったのでした。
|
マルコ 6章14〜29節 2019年2月12日 |
それはヘロデが、ヨハネは正しくて聖なる人であることを知って、彼を恐れ、彼に保護を加え、またその教を聞いて非常に悩みながらも、なお喜んで聞いていたからである。(20) 主イエスがお生まれになった時にユダヤをおさめていたのはヘロデ大王でしたが、今日の箇所に登場するのはヘロデ大王の息子でガリラヤとペレヤの領主となっておさめていたヘロデ・アンティパスという人物のことです。彼は自分の異母兄弟の妻であったヘロデヤを奪ったことから、バプテスマのヨハネから非難されていました。
このヘロデ王は自分を批判したヨハネを捕らえたのですが、同時に、ヘロデは、ヨハネが語っていることが正しいということも知っていました。ヨハネに対する恨み、憎しみと共に、ヨハネに対する畏れを覚え、またヨハネの語る神の言葉を聞いて喜んでいました。
彼は何が正しいかを知っており、実は自分が悔い改めを必要としていることも知っていました。ただ、彼は自分が知っている正しい生き方を生きることができませんでした。そして最終的には「不本意」な気持ちを抱えたまま人々の前で自分のメンツを保つために、ヨハネを殺してしまったのでした。
|
マルコ 6章30〜44節 2019年2月13日 |
それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。みんなの者は食べて満腹した。(41〜42) 十二弟子たちが宣教旅行から帰ってきて、報告をしたとき、主イエスは弟子たちと一緒に寂しいところに行って休もうとされました。主イエスのところにはひっきりなしに人が出入りしていて、食事する暇もないほどだったからです。しかし向こう岸についたとき、すでにガリラヤ湖の反対側には陸伝いに人が集まっていました。主イエスはそんな人々を「飼う者のない羊のよう」とごらんになったのでした。主イエスは人々を深くあわれんで、彼らを教えられます。
ただ弟子たちは寂しい場所に多くの人が集まり、あたりに店もないという状況にとても不安になります。けれども主イエスは弟子たちに、「あなたがたの手で食物をやりなさい」と語られたのでした。もちろん、弟子たちが何とかできる状況ではありません。しかし、主イエスはそこにあった五つのパンと二匹の魚を祝福し、弟子たちを用いて、人々を満ちたらせられたのでした。
|
マルコ 6章45〜56節 2019年2月14日 |
イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。(50) 五千人の給食の奇跡はそこにいた人々や弟子たちを、熱狂と興奮の中に置いたことでしょう。しかし、主イエスは人々を解散させ、弟子たちを「しいて」向こう岸に追いやられたのでした。主イエスは群衆の興奮に身をゆだねることはなさらなかったのです。かえって主イエスはひとりになって山に退いて祈られました。主イエスはどうしても、祈らなければならない、そのようなところにおられました。
さて弟子たちは、ガリラヤ湖の上で逆風に悩まされていました。しかし、そんな彼らのそばに主イエスは海の上を歩いて近づかれたのでした。主イエスが海の上におられるのを見て幽霊だと大声を上げて恐れる弟子たちに、主は「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と語られました。そして主イエスが舟に乗りこまれると風はやみました。
主イエスはどんな嵐の中でも、沈むことのないお方としてそこに立ち、「わたしだ。恐れることはない」と声をかけて私たちを支えてくださるのです。
|
|
|