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マルコ 2章1〜12節 2019年1月26日 |
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。(5) 主イエスがその宣教の拠点しておられたガリラヤ湖の近くのカペナウムに戻られたとき、人々は主イエスのおられる家に押し寄せてきました。そこには律法学者たちもいました。宗教家たちも、主イエスの行われるしるしを見たい、その教えを聞きたいと願っていたのでしょう。
そこにひとりの中風の男が運ばれてきました。けれども家がいっぱいだったので、イエスがおられるあたりの屋根をはがして、彼をつり下ろしたのでした。それはまさにその中風の男を連れてきた人々の信仰の行為でした。ですから、「イエスは彼らの信仰を見て」と聖書は言います。
彼らが主イエスに期待していたのはこの中風のいやしだったでしょう。しかし、主イエスはこの男のもっと根源的な問題を解決してくださいました。主イエスはこの中風の男に「子よ、あなたの罪はゆるされた」と罪のゆるしを宣言されたのです。主イエスはまさにわたしたちに罪のゆるしをもたらすために来てくださったのです。
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マルコ 2章13〜17節 2019年1月27日 |
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(17) アルパヨの子レビは収税所に座っていました。彼は取税人でしたがいわゆる通行税を徴収する仕事をしていたのだろうとされています。主イエスはそこを通られたときに、レビをごらんになって、彼に声をかけられます。「わたしに従ってきなさい」。すると彼は立ち上がって、イエスさまに従ったのでした。レビは取税人を辞めて、主イエスの弟子として生きる決断をしました。
レビは主イエスを自分の家に招待し、食事の席をもうけます。そこにはレビの友人たち、「多くの取税人たちや罪人たち」もいました。ところが宗教家たちは主イエスのそういう姿にクレームをつけます。取税人や罪人たちと食事を共にするということは、彼らの罪や汚れをも身に受けることになってしまう、と考えていたからです。
しかし、主イエスはわたしは「罪人を招くため」にきたのだとおっしゃいます。主イエスはわたしたちの魂の医者なのです。
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マルコ 2章18〜22節 2019年1月28日 |
まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそうすれば、ぶどう酒は皮袋をはり裂き、そして、ぶどう酒も皮袋もむだになってしまう。(22) 主イエスの生き方はその時代の熱心な宗教家たちとは一線を画すものでした。ヨハネ(これはバプテスマのヨハネのこと)の弟子たちやパリサイ人たちはその宗教行為として断食をしていました。しかし、主イエスの弟子たちは断食をしていませんでした。人々は、そういうところに違いを感じて主イエスに尋ねます。「どうしてあなたの弟子たちは断食をしないのですか」。
主イエスは二つの側面から答えられます。一つは、花婿である主イエスが共にいてくださっているのだから今は喜びの時なのだ、ということです。それは断食を否定しておられるのではありません。主イエスご自身も断食なさいました。しかし同時に、主と共に生きる喜びを語られたのです。
もう一つは主イエスの教えはいわば「新しいぶどう酒」だから、古い皮袋、古い考え、宗教観、宗教的実践の枠にはおさまらないのだというのです。新しい皮袋に生きる者たちでありたいと思います。
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マルコ 2章23〜28節 2019年1月29日 |
安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである。(27〜28) この二〜三章の主イエスの物語は、その時代の宗教家たちとの違いや対立を際立たせるものになっています。安息日に、主イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちが歩きながら穂を摘んでいました。するとパリサイ人たちは、イエスに、それは安息日に「してはならぬこと」だと訴えたのでした。律法の中では、他人の畑に入って鎌で刈り入れをすることはしてはいけないことですが、手で摘んで食べることは許されていました。問題はそれを安息日にしたということでした。手で摘んで、それをもんで食べるということは、律法で禁じられている仕事に当たる、それは刈り入れ、脱穀をしたことになるのだと、彼らは主張したのです。彼らは律法に多くの細則を作り、真面目にそれを守ろうとしていましたが、規則を守ることそれ自体が目的のようになっていました。主イエスは安息日は神が人に与えられたすばらしい日なのだと安息日の心を教え、また安息日の主であるご自身を受け入れるようにと迫られたのです。
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