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ヨハネ 20章1〜10節 2019年11月27日 |
すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。(8〜9) マグダラのマリヤは、主イエスが葬られて、次の週の初めの日の朝早く主イエスの墓に向かいます。他の福音書ではマリヤと共に他の女たちも同行していたことが記されていますが、ヨハネはマグダラのマリヤだけに集中しています。彼女が墓に行くと墓の入口に置かれた石は取りのけられ、墓の中は空っぽでした。
マリヤは急いで弟子たちにそのことを知らせます。ペテロとヨハネが墓に走って行って、墓の中に入り、主イエスのからだがそこにないこと、主イエスの体にまかれていた亜麻布がそこに残されていることを確認しました。聖書は弟子たちが、その空の墓を「見て信じた」と言います。ただ、主イエスの復活についてしるされている聖書の預言についてはまだ理解していませんでした。その意味では、彼らは主イエスに何かがあったことは分かったのでしょうけれど、まだその復活については理解していなかったのです。主は彼らの信仰を、少しずつ導いていかれました。
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ヨハネ 20章11〜18節 2019年11月28日 |
そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。(14) ペテロとヨハネは墓から帰ってしまいます。しかし、マグダラのマリヤはまだ、そこにとどまって泣いていました。主イエスはすでによみがえっておられました。その朝はまさに喜びの朝です。しかし、マリヤはまだ主イエスの復活を信じていません。ただ、主イエスの体がなくなってしまったことから、きっと誰かが主イエスの体を別の所に移してしまったのだろう、と思い込んで、主イエスが死んでしまっただけでなく、その遺体さえもなくなってしまったと悲しみのどん底に置かれていたのです。
しかし、そんなマリヤのところに、主イエスご自身が近づいて、「なぜ泣いているのか」と尋ねられます。彼女はそこにいるのが主イエスご自身であることにまだ気づいていません。不信仰は目を曇らせてしまいます。けれども、主イエスは「マリヤよ」と声をかけてくださいました。マリヤは復活の主イエスを認めて喜びに満たされたのでした。
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ヨハネ 20章19〜23節 2019年11月29日 |
その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。(19) マグダラのマリヤは自分が主イエスにお会いしたことを弟子たちに伝え、また主イエスの伝言を彼らに語りました。けれども、弟子たちはまだ主イエスの復活を信じていません。ユダヤ人たちを恐れて戸を固く閉めていました。
しかし、主イエスはしめ切ったその部屋の中に入ってこられ、弟子たちに「安かれ」とおっしゃいました。それは人違いではありません。主は彼らに手と脇をお見せになりました。またそれは幽霊でもありません。弟子たちは確かに復活の主にお会いしたのです。主はまた「安かれ」と声をかけ、彼らを遣わすとおっしゃいました。ある意味、主に遣わされるには、何ともふがいない者たちです。しかし、主イエスは彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けよ」と語り、また罪の赦しの福音を彼らに託されたのでした。最初、神が土で作られた人間が、息を吹き入れられて生きたものになったように、主は御言葉を語り、息を吹きかけて、私たちを生かしてくださいます。
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ヨハネ 20章24〜29節 2019年11月30日 |
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(27) 主イエスが弟子たちにご自身をあらわされたとき、トマスだけはそこにいませんでした。他の弟子たちが、復活の主にお会いした喜びを口々に語っても、トマスは「私は決して信じない」と断言します。自分は見て、さわってみなければ信じない・・・トマスはある意味、実証主義的・科学的・現代的な思考を持っていたということができるでしょう。
しかし、主イエスは一週間後、今度はトマスもいる時にご自身をあらわされました。主イエスは弟子たちに挨拶をした後、トマスに対して語りかけられます。トマスの語っていた不信仰の言葉は全部、イエス様の耳に届いていたのです。主イエスはトマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語られました。トマスは「わが主よ、わが神よ」と答えます。主イエスは彼に「見ないで信じる者はさいわいである」と語られたのでした。見たら、確かめたら、信じる、と多くの人が言います。けれども信じない人は、何があっても信じないものです。「信じる者になりなさい」という主イエスの招きに喜んでお答えする者たちでありたいと思います。
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ヨハネ 20章30〜31節 2019年12月1日 |
これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。(31) この福音書を書いているのは、十二弟子のうちの一人のヨハネとされています。ヨハネがこの福音書を書いたのは彼の晩年で、彼はすでに八十代か九十代かという時期だっただろうと思います。もうすでにマタイ、マルコ、ルカの手によって福音書は書かれ、また教会の中でも知られていました。しかしヨハネは主イエスの十二弟子の一人、主イエスと三年間を共に過ごした者の一人として、主イエスの生涯とその教えについて書き残しておく必要を感じたのでしょう。ヨハネは他の福音書作家が書かなかった事柄も多く書き記しています。
この福音書には明確な意図がありました。それはこの福音書を読む人がイエスを神の子救い主と信じて、主イエスの名によって命を得ることでした。ですから、この福音書を読む人は皆、一つの決断を迫られます。あなたはこの方を救い主として信じるかという問いに対して答えるという決断です。
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