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ヨハネ 8章1〜11節 2019年10月7日 |
イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。(11) 律法学者やパリサイ人たちは何としても主イエスをわなにかけ、追い込もうとしました。彼らは姦淫の現場で捕まえられた女性を主イエスのところにひっぱってきて、この女性をモーセの律法に従って石で打ち殺すべきかと問いました。打ち殺せとおっしゃったら、ユダヤ人に誰かを死刑にすることを禁じていたローマに対する反逆として訴えることができますし、ゆるせとおっしゃたら、モーセの律法に背く者だと断罪できるのです。
しかし、主イエスは、「あなたがたの中で罪のないものがまずこの女に石を投げつけよ」とおっしゃいました。しかし、人々は年寄りからはじめてひとりびとり出て行ってしまいました。彼女に石を投げることのできる人は誰もいなかったのです。
主イエスは彼女に、「わたしもあなたを罰しない」とゆるしを宣言されました。しかし、彼女がまた私たちがゆるされるために、主は十字架の上でご自身を献げてくださったのです。
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ヨハネ 8章12〜20節 2019年10月8日 |
わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。(12) 律法学者たちが姦淫の女を引っ張ってきたとき、そこには深い闇がありました。もちろん、姦淫を犯した女の闇がありました。また同時に、宗教家としてよい人の仮面をかぶりながら、主イエスをねたみ、主イエスを追い込むためなら手段を選ばないという宗教家たちの闇がありました。そして、野次馬としてその場にいたけれども、その場を立ち去っていった群衆の闇もあったでしょう。
しかし、その場に、ただひとり、光なるお方がおられました。主イエスは光です。いろいろな光の中のひとつということではありません。このお方は唯一無比の光です。
そして主イエスはご自身が光として世を照らしてくださるというだけではありません。この光なる主イエスを信じ、従う人もまたこのお方から命の光を与えられて輝くようになります。この暗い世界を照らし、主の栄光をあらわすようになり、主イエスの光をもって闇の中を歩む人を照らし、主イエスに導くようになっていくのです。
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ヨハネ 8章21〜30節 2019年10月9日 |
しかし、わたしをつかわされたかたは真実なかたである。わたしは、そのかたから聞いたままを世にむかって語るのである。(27) 主イエスは父なる神からこの世に遣わされていました。この「遣わされて今ここにいる」という認識はとても大切です。確かに私たちが自分の住む場所を決めたり、職業を決めたり、結婚相手を決めたりするということは、自分の意志でしなければならないことです。けれども同時に、それではすべてのことを自分が本当に決めているのかというとそうは言えません。私たちがいつ、どこで、どの両親の下に生まれるかは一切自分で決めることはできません。またたとえば自分は自分で職業を決めたと言っても、その背後には、いろいろな出会いがあったりします。確かに自分の意志で決断していくということも大切なのですが、同時に、今、ここに、こうして自分がいるのは、神がここに自分を遣わしておられるのだ・・・と導き手である主を見上げることもまた大切です。まさに主イエスはそれを知っておられました。主イエスに備えられていた道は十字架の道でした。しかし、主イエスは「わたしを遣わされた父は真実な方であり、わたしと一緒にいてくださるのだ」とおっしゃいます。主イエスの平安はまさにそこに土台があったのです。
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ヨハネ 8章31〜47節 2019年10月10日 |
もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。(31〜32) 主イエスは自由を得させるために来てくださいました。主イエスが人々を ごらんになる時、人々は自由ではないと判断されました。確かにこの時代、ギリシャ・ローマ世界においては多くの奴隷がおり、自由人の方が少なかったと言われます。ただこの時代の奴隷は牛馬のように働かされて、ということはなかったようです。ほとんどの生産活動は奴隷によって担われていました。しかし同時に、それでも奴隷は自由ではありませんでした。奴隷は主人の所有であり、主人に従う義務を負っていました。主人に束縛されて日々を送っていました。
ユダヤ人社会では他の地域に比べれば自由人が多かったと考えられます。しかし、同時にどれだけ自分は自由だと言っても、実は自由ではない、あなたがたは罪の奴隷なのだ、とイエスさまはおっしゃったのです。罪の奴隷である私たちを自由にするのは主イエスであり、その真理の御言葉なのです。
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ヨハネ 8章48〜59節 2019年10月11日 |
あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見て喜んだ」「よくよくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」。(56、58) ユダヤ人たちは自分たちが罪の奴隷だと指摘されたときに、そのことを素直に受けとめて、救い主なる主イエスにすがるということができませんでした。間違いを指摘されたときに、素直にその言葉を受け入れることができない人は、耳が痛いことを言う相手のことを逆に非難するようになります。この時のユダヤ人たちもそうでした。彼らは、主イエスのことを悪霊にとりつかれていると非難します。
主イエスは、人々が主イエスの言葉に聞き従うなら、いつまでも死を見ることがないとおっしゃいました。主イエスが語られたのは永遠の命のことです。しかしユダヤ人たちは主イエスの言葉を誤解し、ますます反発しました。あの信仰の父としてあがめられていたアブラハムでさえ死んだのに・・・と言うのです。しかし、主イエスはアブラハムより前におられた方でした。主イエスは天からこられた神の子だからです。アブラハムもまた主イエスの日を待ち望んでいたのです。
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