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ヨハネ 9章1〜12節     2019年10月12日

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(3)

 主イエスが道を歩いておられたとき、生まれつきの盲人がそこにいました。おそらく、彼は道ばたに座って、物ごいをしていたのでしょう。その時、弟子たちは主イエスに尋ねます。「この人が生まれつき盲人なのは、誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。きっとこの弟子たちの問いは、この盲人自身にも聞こえていたかもしれません。これは、誰もが聞きたい問いであり、またこの盲人自身も何度も自問した問いだっただろうと思います。たいがいの人は、不幸と思われるようなことがあると、罰が当たったのではないかと思います。
 しかし主イエスは答えられます。「ただ神のみわざがこの人の上にあらわされるためだ」。そして主イエスは、この生まれつき盲人だった男の目を開いてくださったのです。まさに驚くようなことが起こりました。そして主イエスの御名があがめられたのです。

ヨハネ 9章13〜23節     2019年10月13日

パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。(15)

 人々はこの男が生まれつきの盲人であることを良く知っていました。ですからこの男が見えているということが分かった時に大きな驚きをおぼえます。そして戸惑いの中で彼に尋ねます。「お前の目はどうしてあいたのか」。パリサイ人たちも尋ねます。「どうして見えるようになったのか」。彼の答えは同じです。「イエスさまが、あの方がわたしの目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗えとおっしゃったので、そのようにしたら見えるようになりました」。
 泥が特別な成分を含んでいたわけでも、シロアムの池の水の成分がよかったわけでもありません。「あの方が」「イエスという方が」そのことをしてくださったのです。信じられないパリサイ人たちは、本当は彼は最初から目が見えていたのではないかと疑います。百歩譲ってイエスさまがそれをしたとしましょう。だったとしても彼らにとっては主イエスがそのことをなさったのが安息日だったということがどうしても許せなかったのでした。信じないということは本当に悲しいことです。

ヨハネ 9章24〜34節     2019年10月14日

ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです。(25)

 宗教指導者たちにとっては、仕事をしてはならないと決まっている安息日に、主イエスがこの盲人を癒したということは絶対に許せないことでした。きよい神の子である主イエスを、宗教家たちは罪人だと断罪したのでした。宗教家たちと目が見えるようになったこの男とのやりとりはとても印象的です。
 彼は自分が癒されたことを心から喜び、自分の目を開いてくださった主イエスが神から来られた方であることは自明のことだと断言します。生まれつき目の見えない人の目が開かれる・・・それはメシヤが来られる時に起こることとして預言者たちが語っていたことの一つです。ですから主イエスがなさったことを見たら当然、主イエスが神から遣わされたメシヤであることは分かるはずです。しかし、彼らは主イエスを救い主とは信じない、認めないと決めたのです。
 彼にとっては難しい神学的な議論は何の意味もありませんでした。重要なことは見えなかった自分が今は見えるということ、主イエスがそれをしてくださったということだったのです。

ヨハネ 9章35〜41節     2019年10月15日

イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」。(43)

 目が見えるようになった生まれつきの盲人は、自分を治してくださったのがイエスさまだということは知っていましたが、実際には自分の目で主イエスを見ていませんでした。主イエスはそんな彼の前にご自身を示して、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。この「人の子」とは救い主の称号の一つで、ダニエル七13〜14で預言されています。そして、主イエスが「今あなたと話しているのが、その人である」と言われたときに、彼は「主よ、信じます」と信仰を告白したのでした。ヨハネはその福音書の中で、信じるということの大切さについて何度も触れています。病が癒された、障害が治ったというだけでは十分ではありません。体の目だけでなく、魂の目が癒され、神を心の目で見、信じることができるようになることが大切なのです。ですから、主イエスはパリサイ人たちに、「あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」とおっしゃいました。自分の心の目が見えないことに気づいて、主イエスの救いを求めることが大切なのです。



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