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ヨハネ 14章1〜4節 2019年11月2日 |
あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1) 弟子たちは、自分たちの中のひとりが主イエスを裏切ると言われたり、主イエスがあなたがたはついてくることができないと言われたりで、とても不安だったと思います。主イエスが大きな覚悟をもってエルサレムに来ておられることは十分に伝わっていたと思いますが、主イエスがこれからしようとしておられること、主イエスの身に起ころうとしていることについてはわからなかったからです。
そんな弟子たちに、主イエスは「心を騒がせるな」とおっしゃいます。そして「神を信じ、またわたしを信じなさい」と力強く語られます。主イエスは弟子たちのことをちゃんと考えておられましたし、主イエスはご自身のみもとに弟子たちをずっとおらせようとしておられたからです。
確かに、一時的には、主イエスを見ることができなくなってしまうかもしれません。しかし、主イエスは私たちのためにちゃんと場所を用意して、私たちを迎えてくださるからです。
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ヨハネ 14章5〜7節 2019年11月3日 |
わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。(6) 主イエスは弟子たちに、あなたがたは私がどこに行くのか、その道がわかっているはずだ、とおっしゃいます。確かに、主イエスは何のために世に来て、何をしようとしておられるのか、何度も弟子たちに語ってこられたのです。まさに主イエスは私たちのためにあがないを成就して、父なる神のもとに帰ろうとしておられました。けれども、弟子たちは主イエスの言葉を理解することができませんでした。
しかし、そんな弟子たちに、主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られました。主イエスご自身が道となって、私たちと神とをつないでくださいました。主イエスに信頼する人は決して裏切られることはありません。そして、主イエスは命であって、私たちに命を与えてくださる方です。
この「道・真理・命」という言葉には、定冠詞がつけられています。主イエスだけが道であって、他には道はないのです。
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ヨハネ 14章8〜14節 2019年11月4日 |
よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。(12) 主イエスの弟子たちは、主イエスが神を「父」と呼ばれ、その神との間に親しい交わりをもっておられるのを知っていました。弟子たちは、自分たちも、主イエスが「父」と呼ばれるお方を知りたいと願っていました。ピリポは「わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば満足します」と主イエスに求めます。主イエスの生涯の鍵がまさに「父」にあることを弟子たちは感じていたのでしょう。けれども、主イエスは「わたしを見た者は、父を見たのである」とおっしゃいます。主イエスは父なる神のみもとから来て、まさに父なる神を私たちに見せてくださったのです。
そして、主イエスは、自分が父のみもとに帰るとき、自分は私たちの祈りに答えるから、主イエスを信じる者は、主イエスが地上でなさったきたよりも、もっと大きいわざをするようになる、と約束してくださったのでした。
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ヨハネ 14章15〜17節 2019年11月5日 |
わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。(16〜17) 主イエスは父なる神のみもとに帰ろうとしておられました。しかし、主イエスは、弟子たちに、また来てあなたがたのことを迎える、と約束してくださり、また、主イエスの名によって、私たちが願うとき、何でもかなえてあげようと約束してくださいました。主イエスが心騒ぐ弟子たちに語られたもう一つのことは、主イエスが父なる神にお願いして、別に助け主を送っていただくからということでした。それは真理の御霊であり、あのペンテコステの日に祈っていた人たちの上に降った聖霊のことです。
この「助け主」とは、単なるヘルパーということではありません。ギリシャ語で「パラクレートス」という言葉なのですが、私たちを弁護し、私たちを慰め、支え、力を下さるお方ということです。この方は私たちのそばに、私たちのうちにいてくださいます。この聖霊は、「父なる神・子なる神・聖霊なる神」の三位一体の神であり、この聖霊がうちに住んでくださるということは、私たちに与えられる大きな祝福なのです。
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ヨハネ 14章18〜24節 2019年11月6日 |
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。(18) 主イエスは弟子たちに、あなたがたは、わたしの行く所について来ることはできないとおっしゃいました。主イエスと弟子たちとの地上における別れが近づいていました。主イエスは十字架・復活の後、弟子たちの見ている前で天に帰っていかれるのです。主イエスの地上における働きのクライマックスは十字架と復活で、そこにおいて私たちのためにあがないを全うされた後は、神の働きは新しい段階に入っていこうとしていました。
ただこの時には、まだ弟子たちには多くのことが分かってはいません。ただ「分からない」ということから来る不安と畏れが弟子たちの心にいっぱいになっていたことでしょう。
しかし、主イエスは「あなたがたを捨てて孤児とはしない」と約束してくださいました。肉眼で主イエスを見ることができなくなっても、主イエスは確かにいて下さって、私たちのことを愛していてくださり、また、やがて再び来てくださる・・・それは変わることのない約束なのです。
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ヨハネ 14章25〜31節 2019年11月7日 |
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(27) 十字架の死によるあがないということは主イエスにとっても決して、軽々しく向き合うことができることではありませんでした。主イエスの中にもいろいろな思いがおありになっただろうと思います。その痛みや苦しみ、そして死ということ以上に、私たちの罪を負い、父なる神に呪われたものとなるということの恐ろしさを、主イエスは知っておられたからです。
しかし、同時に、主イエスの中には平安がありました。十字架の死が私たちの救いにつながることを分かっておられたからです。
そして、主イエスはご自身の中にあった平安を弟子たちにも残して行く、与える、とおっしゃいました。それはこの世の何ものも与えることのできない平安です。十字架を前にした主イエスをも支えていた平安が、私たちの心と思いを守ってくださいます。だから私たちは心騒がせたり、恐れたりする必要はないのです。
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