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ヨハネ 19章1〜16節 2019年11月21日 |
ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。(5) ピラトは主イエスを死刑にと言われても全く気が進みません。実際、このところでピラトはユダヤ人たちに対して三度までも、「わたしは、この人には何の罪も見いだせない」と断言しています。実際、ユダヤ人たちも、主イエスを死刑にしてほしいのは、主イエスが自分を神の子としたからだと、本音を出してしまいます。
ピラトはイエスを捕らえて、むちで打たせます。主イエスの皮は避け、血が流れたことでしょう。そして、兵卒たちは主イエスにいばらの冠をかぶらせ、高貴な色である紫の衣を着せて、さんざん主イエスを馬鹿にします。そして、ピラトは主イエスを人々の前に引き出して、「見よ、この人だ」と叫びます。それは王とはほど遠い、傷だらけで、弱々しく、みじめな人の姿でした。
ピラトは、そのようにして、ユダヤ人たちが主イエスのことをあわれむ心を抱くのではないかと思ったかもしれません。しかし、宗教家たちは、それでも主イエスに対して心を開きませんでした。「見よ、この人だ」というこの言葉は、苦しみの中にあった主イエスこそが救い主だ、このお方を見るのだという、招きでもあります。
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ヨハネ 19章17〜24節 2019年11月22日 |
ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いてあった。 ・・・多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル、ローマ、ギリシヤの国語で書いてあった。(19〜20) 主イエスが十字架につけられたとき、主イエスの十字架の上には、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」という罪状書きが掲げられていました。その罪状書きはヘブル語、ギリシャ語、ラテン語で書かれていて、過越の祭を祝うために世界中から集まって来た多くの人たちがその罪状書きを読みました。
まさに主イエスは王としてこの世に来られました。それは単にダビデの子孫として生まれたイスラエルの王というだけでなく、世界の王でした。もちろん、主イエスの姿はあまりにも王には似つかわしくないものでした。主イエスは傷だらけで、裸で、あまりにもみじめな姿でそこにおられました。しかし、十字架につけられた主イエスこそが私たちの救い主であり、また私たちが信じ、信頼して、仕えるべきお方、王の王、主の主です。このお方を王として、主として、仰ぐときに、主は私たちに命を与えてくださいます。
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ヨハネ 19章25〜27節 2019年11月23日 |
「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です」。 「ごらんなさい。これはあなたの母です」。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとった。(26〜27) 十字架はそれはそれは残酷でむごたらしい死刑でした。あまりにも恐ろしいので、ローマ帝国は、ローマの市民権を持つ人には、十字架での死刑を行わなかったほどです。その恐ろしい十字架のそばに主イエスの母マリヤもいました。マリヤはまさに胸を引き裂かれるような思いだったことでしょう。そして、その十字架のそばに母マリヤがいて、悲しみにくれている姿を見なければならなかった主イエスもまた、体の苦しみ以上に、大きな心の痛みを感じておられたことだろうと思います。
そして、主イエスはその大きな苦しみの中で、母マリヤに声をかけられます。そのような中にあっても母マリヤのことを心にとめ、慰め、支えようとされたのです。そしてこの後のことも心配してくださいました。主イエスはマリヤを愛弟子(ヨハネのこととされています)にゆだねられたのでした。そしてこのヨハネはその後、最期までマリヤのお世話をしたと言われています。
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ヨハネ 19章28〜30節 2019年11月24日 |
「すべてが終った」(30) 主イエスは十字架の上で、「わたしは、かわく」とおっしゃいました。それは単に喉が渇いたという体の渇きだけではなく、魂の深い渇きをおぼえてくださったということでもあります。本来、命の源である主イエスは肉体をとって来られた時、喉が渇くことがどのようなことかを経験してくださいましたけれども、魂の渇きについては何の関係もないお方だったはずです。しかし、私たちの罪を負い、呪われた者として十字架で死んでくださる中で、深い魂の渇きをも経験してくださったのです。
そして主イエスは「すべてが終わった」と言われました。これは決して、もうおしまいだという絶望の叫びではありませんでした。また父なる神に対しての不信仰の叫びでもありません。救いのために必要なすべてのことは十字架において、わたしが成し遂げた、という勝利の叫びです。だから、私たちは救われるために、何かをしなければならないということではありません。すべてのことを成し遂げてくださった主に信頼すれば良いのです。
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ヨハネ 19章31〜37節 2019年11月25日 |
ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。それを見た者があかしをした。そして、そのあかしは真実である。・・・それは、あなたがたも信ずるようになるためである。(34〜35) 十字架刑は、普通は犯罪者が絶命するまで数日かかると言われています。十字架につけられた犯罪者は血を流しながら、大きな苦しみの中で徐々に死んでいきます。痛みと恐怖のために発狂する罪人たちもいたと言われています。しかし、主イエスは数時間で息を引き取られました。祭の前に死刑を終わってしまうために、まだ息のあった犯罪人たちは足を折って、絶命させられました。ただ、主イエスはすでに死んでいたので、足は折らないで、ただ確認のためにやりで主イエスの脇腹を刺しました。すぐに水と血が流れ出たと言います。水と血の分離とは、極度のストレスと苦しみの中で起こるとされています。同時に、水と血というのは、主イエスのあがないとそのきよめの御業をあらわしているともされており、これはヨハネによる福音書の中に何度も出てくるテーマです。ヨハネはその様子を見ていました。そしてこのことを記録し、また私たちのために救いの業を成就してくださった主イエスを信じるようにと読者を招くのです。
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ヨハネ 19章38〜42節 2019年11月26日 |
そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。(38) 多くの宗教指導者たちが、主イエスを信じることをせず、十字架につけたのですが、同時に宗教家たちの中にも、素直になって主イエスを旧約聖書に約束されている救い主メシヤだと信じる者たちがいました。ただ、声を大きい人々、また大多数が主イエスを十字架につけるという大きな流れの中に加わっていく中で、主イエスに対する信仰を告白するのはとても難しいことでした。主イエスを信じ、告白する人がいたら、会堂から追放するという方針もすでに公表されていたのです。
しかし、そのような中で、主イエスの十字架の死をきっかけにしてその信仰を公にする人たちもいました。アリマタヤのヨセフもその一人でした。特に主イエスの表向きの罪状がローマ皇帝に対する反逆罪だったことから言うと、総督ピラトに遺体の引き取り方を願い出るのは大きな勇気が非いつ用だったと思います。しかし、彼は主イエスを引き取り、ニコデモと共に、墓に葬ったのでした。私たちも自らの信仰の旗色を鮮明にしたいと思います。
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