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ヨハネ 7章1〜9節     2019年10月1日

イエスの兄弟たちがイエスに言った、「・・・自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。(3〜4)

 主イエスに対する反発は徐々に激しくなっていました。特にエルサレムを中心とするユダヤ地方においては主イエスに処罰を加え、殺すことが、神の御心に従うことだと信じる宗教家たちも多くいたようです。主イエスはガリラヤ地方を中心に巡回を続けられ、仮庵の祭の時にも、すぐにはエルサレムに行こうとされませんでした。主イエスには人々に不用意なつまづきと混乱を与えたくないという思いもおありになったのでしょう。
 しかし、主イエスの弟たちには、そのような主イエスの思いはまだ理解できません。人々を教え導こうとするなら、宗教・政治・文化の中心であるユダヤに行くべきだと語るのでした。もちろん、主イエスはユダヤにその働きの本拠地を移して、その地で人々を教え、多くの力ある業を行って人々を説き伏せることもできたでしょう。しかし、それは十字架による救いをもたらそうとしておられた主イエスの生き方ではありませんでした。

ヨハネ 7章10〜24節     2019年10月2日

モーセはあなたがたに律法を与えたではないか。それだのに、あなたがたのうちには、その律法を行う者がひとりもない。(19)

 仮庵の祭というのは、今で言う九月から十月頃にもたれる祭で、新年の祝いの時でもありました。イスラエルの農耕カレンダーでは小麦・ぶどうなどの収獲が終わり、次の一年が始まる前の区切りの時です。一年の始まりに主を礼拝すると共に、仮庵を建てて、そこに住み、自分たちの先祖たちが荒野で幕屋生活をしたことを覚え、その四十年間の荒野の歩みにおいても主が自分たちを支えてくださったことを記念したのです。
 主イエスは、人々よりも少し遅れてエルサレムに上られました。主イエスはエルサレムでもすでに時の人でした。そして主イエスに対しては人々は様々な評価をしていました。よい人だと言う人もいましたし、群衆を惑わす者だとする人たちもいました。ただエルサレムの宗教家たちの主イエスに対する評価はとても悪いものでした。主イエスが彼らの宗教に対して厳しく向き合い、挑戦されたからです。宗教家たちが、律法を、その本質的なところを理解せず、行っていないと主イエスは断罪されたのです。

ヨハネ 7章25〜31節     2019年10月3日

わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実である・・・わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである。(28〜29)

 主イエスの権威ということを考えるときに、そこで問題とされたのは主イエスがどこから来られたか、主イエスの権威の源はどこかということでした。主イエスがどこから来たか、という時に、人々の基本的な理解はガリラヤのナザレ出身で、大工の息子、というようなことだったでしょう。
 しかし、主イエスは自分はつかわされてきたのだとおっしゃいます。そして主イエスをつかわされた方は真実な方でした。それは天におられる父なる神のことです。主イエスはその方を知っていました。しかし、イエスさまは、宗教的な指導者たちも含めて、人々はそのお方を知らないとおっしゃいます。主イエスはまさに、ご自身が知っておられ、ご自身をつかわされたお方を私たちに知らせるために、天からこの世に来てくださったのです。
 主イエスを捕らえようとした人々もいました。しかし群衆の中の多くの人々が主イエスを信じました。私たちも心を開いてこのお方を信じたいと思います。

ヨハネ 7章32〜36節     2019年10月4日

今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。・・・そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない。(33〜34)

 エルサレムにいた群衆は、主イエスを受け入れようとしました。主イエスが旧約聖書に約束された救い主キリストかどうかはまだ確信はなかったかもしれませんが、主イエスの教えやその行われたしるしを見る中で、主イエスに傾倒する人々が増えてきていました。エルサレムの宗教家たちは危機感を感じて、下役どもをつかわし、主イエスを捕らえてくるようにと命じました。
 主イエスはまた人々を教えられます。主イエスがどこから来たのかという問いの次に大切な問いは、主イエスがどこに行こうとしておられるのかということでした。主イエスは自分は自分をつかわされた方のみもとに行くとおっしゃいました。主イエスは天から来て、この地上での使命を果たしたら、また天に帰ろうとしておられました。そしてその時には誰も主イエスを見つけることはできなくなりますし、主イエスを信じなかったら、誰も主イエスについていくことはできないでしょう。しかし、主イエスを信じる人を主は父のみもとに導いてくださいます。

ヨハネ 7章37〜44節     2019年10月5日

だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。(37〜38)

 仮庵の祭の期間中、エルサレムの南のシロアムの池から水をくんできて祭壇に注ぎかけることがされました。主イエスは祭の最終日、おそらくシロアムの池から水がくんでいかれる様子を見ながら、大声で叫ばれます。「だれでもかわく者は、わたしのところに来て飲むがよい」。主イエスの言葉を聞いた人たちは、あのモーセが荒野で岩から水を出させて、人々のかわきをいやしたことを思いだし、またイザヤ五五章の預言を思い起こしたことでしょう。
 主イエスの下さる水を飲むということは主イエスを信じるということです。主イエスを信じると、私たち自身のかわきがいやされるだけではありません。信じる人の内側から生ける水が川のように流れていくのです。それは多くの人たちに祝福をもたらし、多くの人を生かす存在となることができることをあらわしています。ヨハネはこの主イエスが下さる水とは、聖霊のことだと言います。信じる者には聖霊が与えられ、多くの人を生かす・・・それはまさに聖書の約束なのです。

ヨハネ 7章45〜53節     2019年10月6日

下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。(46)

 主イエスを捕らえるようにと言われて主イエスのところに来た下役たちは、主イエスの話を聞いているうちに、本当に主イエスは救い主メシヤなのかもしれないと主イエスを捕らえることなく祭司長・パリサイ人たちのところに戻って来ました。なぜ主イエスを連れて来なかったのかと問いただす宗教家たちに、下役たちは言いました。「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。ある意味、下役たちは、自分たちが仕えている宗教家たちからも聞いたことのない、すばらしい神の話を主イエスから力強い言葉として聞いたのです。
 しかし、宗教家たちは下役たちを叱りつけて、「あなたがたはだまされている」と断定します。そのような先入観に捕らえられて、まともにきちんと主イエスに聞くこともしなかったのでしょう。かえって彼らが、分かっていない、だまされている、愚かだと決めつけた人たちの方がよっぽど素直に、神様のことを信じ、主イエスの語られる神の言葉に耳を傾けたのでした。



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