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ヨハネ 15章1〜11節 2019年11月8日 |
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。(5) ヨハネによる福音書には主イエスが「わたしは○○である」という言葉が7つあります。今まで、命のパン、世の光、門、よい羊飼い、よみがえりであり命、道・真理・命、とあったのですが、最後に出てくるのが、このところにある「わたしはまことのぶどうの木」という表現です。主イエスがぶどうの木で、わたしたちはその枝です。果実は枝につきますが、枝が実を結ぶのではありません。枝が木に結びついているときに、その木の命が枝にも流れてきて、実を結ばせてくださるのです。大切なことは、枝がきちんと木につながっていることです。
この「つながる」という言葉は「とどまる」という意味の言葉です。そして、主イエスにつながるとは、教会につながることであり、また御言にとどまることであり、主イエスの愛の中にとどまることです。ぶどうの枝で家具を作ることはできません。実を結ばなかったら無用になってしまいます。私たちも主イエスにとどまって実を結ぶ者でありたいと思います。
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ヨハネ 15章12〜17節 2019年11月9日 |
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり・・・。(16) 私たちはいろいろな形で主イエスと出会います。いろいろな人生の苦難の中で神を探し求めて主イエスに出会う人もいれば、たまたま遭遇したちょっとしたきっかけがもとになって信仰に入る人もいます。確かに信仰に入る時には、私たちはそこで一つの決断をします。主イエスを救い主として、神として、選ぶという決断です。けれども、ある意味、私たちが神を選んだかに見える状況の中にあっても、実は私たちではなく、神が私たちを選んでくださっていたのです。これを神の「選び」と言います。私たちの救いの根拠が私たちが神を選んだという、私たちの側にあるとすると、私たちは信仰を持ってからも、神を選び続けることが救いを保ち続けるために大切だということになります。確かにそこにも一面の真理があるかもしれません。しかし、私たちの救いの確かさは、私たちを選んでくださった神の側にあります。私たちを選んでくださった神は確かなのです。
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ヨハネ 15章18〜27節 2019年11月10日 |
わたしが父のみもとからあなたがたにつかわそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについてあかしをするであろう。(26) ヨハネは十三章から十六章まで、十字架前夜、最後の晩餐からの主イエスの教説を詳しく書き残しています。他の弟子たちはここまで詳しくは書いていなかったので、ヨハネは最後に生き残った十二弟子のひとりとしてどうしても、この特別な夜に主イエスが語られたことを書き残して起きたいと思ったのでしょう。同時に、主イエスが十字架前夜に語られたことは、その後の教会の歩みの中で、ああ、あそこで主イエスが語られたのはこのことだったのだと、理解できるようになったということでもあっただろうと思います。
特に、ヨハネは主イエスが聖霊について語られた言葉を、この福音書の中で詳しく書き残しています。主イエスが天に帰られても、主イエスは私たちのために聖霊なるお方をつかわしてくださいます。そしてこのお方は、主イエスのことを私たちに証しし、教え、悟らせてくださるのです。
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