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ヨハネ 4章1〜15節 2019年9月14日 |
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。(14) 主イエスは南のユダヤから北のガリラヤ地方へと移動されました。ユダヤ地方とガリラヤ地方の間にはサマリヤという土地がありました。このサマリヤにはイスラエル人と異邦人の混血の民が住んでいて、宗教的にも混交宗教的になっていましたので、ユダヤやガリラヤに住んでいる人たちからは軽蔑され、嫌われていました。そしてユダヤとガリラヤを移動するときにも、多くの場合にはサマリヤ地方を迂回していました。しかし、この時には、「イエスはサマリヤを通過しなければならなかった」と聖書は言います。主イエスはある意味、この女と出会うためにここを通られたとも言えます。
そして主イエスは、この井戸のそばで、主イエスが与えることのできる、いつまでも渇くことなく、永遠の命に至るいのちの水について語られます。それは体を潤す水ではなく、魂を潤し、永遠の命を与える水のことでした。それは主イエスからいただく水なのです。
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ヨハネ 4章16〜26節 2019年9月15日 |
まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。・・・神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。(23〜24) このサマリヤの女は、初対面の主イエスが自分の結婚生活についてズバリ語られた時に、主イエスがただ者ではなく、預言者に違いないと考えます。そして彼女はユダヤ人と自分たちサマリヤ人との宗教の違いについて質問します。主イエスは本当の礼拝は、場所の問題ではないことを指摘され、霊とまこととをもってささげられる礼拝の大切さを語られました。
私たちも礼拝をささげます。そこで大切なのは、プログラムをこなすということではありません。もちろん、プログラムはどうでもいいということではありません。その一つ一つのプログラムの持っている意味をきちんと理解することが大切でしょう。また礼拝を守ればいいということでもありません。礼拝の中に身を置きつつ、霊なる神をあがめ、また自らを生きた聖なる供え物として神さまに献げていくということが私たちには求められているのです。
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ヨハネ 4章27〜38節 2019年9月16日 |
目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。(35〜36) さて、まだ主イエスがその女と話し合っているときに、弟子たちが食物を買って戻って来ました。しかし、主イエスは、「わたしは、あなたがたの知らない食物がある」とおっしゃいます。それは、神のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることでした。そして神のみこころとは、人々を永遠の命への信仰に導くことでした。そして主イエスは一人の人を罪の中からいのちへと導くことを何よりの喜びとされたのです。
季節的にはまだ収獲の季節ではありませんでした。しかし、主イエスが見ておられた霊の畑は「はや色づいて刈入れを待っている」状態でした。あのサマリヤの女が、そしてサマリヤの人たちがイエスさまを信じるなど誰が期待していたでしょうか。しかし、主イエスはすでに刈入れを待ち、神の子を信じるばかりになっている人々の姿を見ておられたのです。そして私たちも刈りいれを待っている世界に遣わされているのだということを覚えたいと思います。
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ヨハネ 4章39〜42節 2019年9月17日 |
彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。(42) サマリヤの女は昼の十二時頃、ひとりでヤコブの井戸に水をくみに来ていました。しかし、主イエスがキリスト、旧約聖書の時代から神によって約束されてる救い主かもしれないと思ったとき、いても立ってもいられなくなり、水がめをそこに置いたまま、町に入って行って人々に、主イエスのことを伝えました。町の人々はその女の言葉を信じて主イエスのところに出て来て、イエスさまを信じました。
スカルの町の人たちは最初は、この女性の話を聞いて、主イエスに会いに出てきました。しかし、主イエスのところに来て、主イエスの話を直接聞くうちに、このかたこそまことの救い主だと信じたのでした。私たちも主イエスのことを人々に紹介し、伝えて行きたいと思います。そして、人々が主イエスのところに来て、自分でも聞いて、確かにこのかたこそが救い主だと信じることができるように祈っていきたいと思います。
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ヨハネ 4章42〜45節 2019年9月18日 |
イエスはみずからはっきり、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言われたのである。(44) 主イエスはサマリヤを去ってガリラヤに行かれます。サマリヤで多くの人たちがイエスさまを受け入れ、主イエスは予定を変更して、その地にとどまって人々を教えられたのでしたが、同時に、イエスさまは、サマリヤで起こったことがどこででも起こることではないことを知っておられました。ユダヤの宗教指導者たちは、主イエスのことを敵視していましたし、またイエスさまの故郷の町ナザレの人々は、イエスさまのことを大工ヨセフの子としては歓迎しましたし、またナザレの生んだ英雄というような評価を下したかもしれませんが、同時に、イエスさまを救い主として受け入れることはなかなかできませんでした。ですから、主イエスは「預言者は自分の故郷では敬われない」とおっしゃったのでした。
主イエスがガリラヤに戻られたとき、人々は主イエスを歓迎しました。しかし、それも祭の間に、主イエスがユダヤでなさったことを見ていたからでした。人々はさらに多くのしるしを期待していました。しかし、イエスさまは人々が自分を信じることを願っておられたのです。
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ヨハネ 4章46〜54節 2019年9月19日 |
イエスは彼に言われた、「お帰りなさい。あなたのむすこは助かるのだ」。彼は自分に言われたイエスの言葉を信じて帰って行った。(50) 主イエスはガリラヤのカナに行かれました。そこは主イエスが水をぶどう酒に変える奇跡を行われた場所です。しかし、主イエスがカナにおられることを知ったカペナウムの役人が、わざわざカナまでやって来て、主イエスに助けを求めました。彼の子どもが死にかかっていたのです。彼は主イエスにすがりつくようにして、すぐに一緒にカペナウムに来てほしいと懇願するのでした。しかし、主イエスは、しるしと奇跡を見ないと信じない人々の姿勢に対して釘を刺されます。ただ他の野次馬たちはともかくとして、この父親自身は息子を助けたい、ただその一心だったと思います。
主イエスは彼に「お帰りなさい、あなたの息子は助かるのだ」とおっしゃいます。彼に信仰を求め、信仰の行動を求められたのです。父親は「自分に言われたイエスの言葉を信じて」帰っていきます。そして彼の息子は、まさに主イエスが語り、父親が信じて行動を起こしたその時に癒されたのでした。
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