ヤコブは信仰による救いを説いたパウロを否定したり、良い行いによって救われるのだと語っているのではありません。主イエスを救い主として信じて生きるなら、それにふさわしい歩み、生き方をするべきだというのです。たとえば、主イエスを信じていると言いながら、人を見た目で判断したり、分け隔てするのはおかしいのです。主イエスを信じて生きる人は、隣人を愛するはずだし、具体的に愛の手を差し伸べるということにつながるはずです。ですからヤコブは、行いのない信仰はおかしいと語るのです。ヤコブは「私も行いによって、私の信仰を見せましょう」と語ります。信仰は見えるものです。行いのない信仰は死んだものです。信仰は頭の中だけで考えるものではなく、私たちの具体的な歩みの中で、あらわされ、証しされていくものであり、そこで信じて、どのような生き方をしていくかということが問われているのです。