パウロはエフェソの人たちがどのような中から救われたかを思い起こしています。彼らは罪の中にいて、神の怒りの下に置かれ、肉の欲に従って歩んでいました。彼らは過ちの内に死んでいました。そんな彼らを神は恵みにより、信仰を通して救ってくださいました。良い行いをしたから救われたのではありません。しかし同時に、私たちが救われたのは、私たちが神の作品として神の栄光をあらわし、良いことをして証しを立てるためです。
そして、私たちに与えられた救いは、個人として私が罪の赦しをいただいたというだけでなく、私たちが神と和解し、敵意の中にあったお互い(ここでは特にイスラエル人と異邦人)の間に平和がもたらされ、共に主に仕えつつ神の住まいとして建て上げられていくという広がりを持っています。それはまさに全く水と油のように違うお互いが主につなげられることによって教会を建て上げていくことにつながっているのです。