ガラテヤ6章

しかし、この私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この方を通して、世界は私に対し、また私も世界に対して十字架につけられたのです。(14)

 私たちは、割礼などどちらでもよいではないかと思います。それぐらい熱く割礼を受けるべきだと言い張る人がいるなら、面倒だからその人たちの言うようにしておいたらよいではないかと思ったりします。しかし、パウロにとってはガラテヤの異邦人キリスト者たちが割礼を受けることに走ることは決してどうでもよいことではなく、キリスト教の根幹を揺るがすことでした。
 割礼を受けた異邦人キリスト者たちは割礼を受けたことを誇りとするようになります。それを自慢し、また割礼を受けたり、律法の規定やユダヤ人たちが大切にしている言い伝えを守って生きることで、自分が救われるかのように考えたり、そのことで立派なキリスト者になったかのように勘違いしたのです。しかし、パウロにとって唯一の誇りは、主イエス・キリストの十字架でした。そしてパウロはガラテヤの人たちにもそこに焦点のあった歩みをしてほしいと願っていたのです。