パウロはまた次のトピックを取り上げます。それは主イエスの復活の確かさということです。コリント教会の中に、主イエスの復活も死者の復活も信じない人たちがいたからです。主イエスの復活は、キリスト教において、決してどちらでもよいことではありません。それはまさに、主イエスの十字架の死と共に、福音の中心でもあり、多くの人が証言することができる確かなことです。
ただ、ギリシャ・ローマ世界の人たちは、肉体は魂の牢獄だとし、死を魂の解放としてとらえました。ですから、彼らにとっては、せっかく肉体から自由になったのに、また肉体でよみがえるのはナンセンスに思えたのでしょう。
しかし、パウロは主イエスの復活を語ります。復活の主は「月足らずに生まれたような私」「最も小さな者」「使徒と呼ばれる値うちのない者」であったパウロに出会ってくださいました。そしてこのお方の恵みによって彼は生きていたのです。