コリント1 7章

主にあって召された奴隷は、主によって解放された者であり、同様に、召された自由人はキリストの奴隷だからです。(22)

 パウロは、独身者として生涯を過ごしたとされています。パウロは自分が与えられた生涯で主に与えられた使命に生きるために、独身者であることを選びました。また、パウロが独身者としての生き方を勧めているのは、「現在、迫っている危機のゆえに」(26)とあるように、パウロがこれから多くの患難があり、そして主イエスの再臨も近い、と考えていたからでしょう。ですからパウロは基本、「召された時の状態のままで」いるようにと勧めます。
 割礼のあるなしや、奴隷であるかどうか、結婚していているかどうかであなたの救いだとか、キリスト者として人間としての価値が変わってしまうことはありません。自分がどのような中にあったとしても、私は主にあって召されてそのような中にいる・・・自分でない自分になるようにと励んだり、自分でない自分の姿を追い求めるのではなく、主に信頼し、主に召されて今ある自分を受け止めることが大切なのです。