ローマ4章

イエスは、私たちの過ちのために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたからです。(25)

 ユダヤ人たちにとってそのルーツはアブラハムと言えます。そこでパウロは旧約聖書をひもときながら、アブラハムの場合にはどうだっただろうかと問います。アブラハムが「義と認められた」という言葉は創世記十五章にあります。この時には、まだアブラハムは律法を与えられていませんでしたし、ユダヤ人たちが大切にしていた割礼も受けていませんでした。しかし、彼がそのような中で、信じて義とされたことによって、彼は割礼のある者にも割礼のない者にも信仰の父となったのです。彼はその行いのゆえに義とされたのではありません。彼は信仰のゆえに義とされたのです。
 彼はまだ子どもがいなかったのに、また実際には、彼も妻のサラも歳をとって、子どもが与えられる状況ではなかったにも関わらず、「望み得ない」状況の中で、死者を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのです。
 そして私たちもまた死者を復活させてくださった神を信じる時に義とされます。主は私たちの罪のゆえに死なれ、私たちを義とされるために復活させられたのです。