マルコ15章

「他人は救ったのに、自分は救えない。増し呀、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがよい。それを見たらしんじてやろう。」(31~32)

 捕らえられたイエスさまはまずユダヤ人議会で、神を冒瀆するものとして「冒瀆罪」で死刑を宣告され、その後、ローマ総督ピラトの裁判を受けて、ローマ皇帝に対する「反逆罪」で十字架刑が決まります。ピラトはイエスさまが死刑になるような罪は何も犯していないことを知っていましたし、その背後にユダヤ人指導者たちの妬みがあったことを見抜いていました。しかし、彼は自分の信じるところに従って正しい裁きすることができませんでした。
 死刑が決まったイエスさまをローマの兵隊たちはばかにし、十字架につけられたイエスさまのことを、祭司長、律法学者たちはあざ笑い、侮辱しました。彼らはイエスさまに対して、「他人は救ったが、自分は救えない・・・今すぐ十字架から降りるがよい」と言います。しかしそれはまさにイエスさまの姿を的確に表す言葉でもありました。イエスさまはご自分を救うことなく、私たちを救ってくださいました。十字架から降りられなかったのではありません。私たちの救いが成就するために降りなかったのです。