宗教家たちは主イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談し、お金を積んで、主イエスを裏切らせ、また偽証者まで立てて、イエスさまを陥れようとしました。民を指導する人たち、聖書を学び、教える人たち、神殿での礼拝の主催者たちが、主イエスの語られた言葉をきちんと聞くことをせず、またイエスさまがなさっていることをきちんと見ようとしないで神が遣わされた救い主、御子イエスを葬り去ろうとしているところに人間の罪のおぞましさを思います。
対照的にひとりの女性が極めて高価な香油を持ってきて、イエスさまの頭に注ぎかけます。弟子たちは憤慨します。無駄遣いだと言うのです。しかし、彼女は決してそれをもったいないとか、無駄だとか思いませんでした。そして、主イエスも「私に良いことをしてくれた」と受け止めてくださいました。裁判の時も、十字架の時も、葬りの時にも香油の香りが残っていたことでしょう。そして、今も、福音が語られるときには、同じようなことが起こります。イエスさまを愛し、もったいないと言われるような献げ方をする人が出てくるのです。