確かにアモスの時代には北王国イスラエルはヤロブアム2世の治世の下で栄えていました。しかし、その繁栄はあくまでも表面的なものでした。彼らは主に背き、正しい者を苦しめ、弱い者・貧しい者を搾取して、贅沢をしていました。彼らに裁きが、滅びが臨もうとしていました。しかし、そのような苦難の時にも彼らは主に立ち帰るのではなく、偶像の神々に助けを求めたのでした。ベテル、ギルガル、ベエル・シェバといった町々はこの時代、偶像礼拝で知られた町々でした。しかし、そのような彼らに滅びが迫っていました。
主が願っておられたのは、彼らが滅びることではありません。生きることです。主はイスラエルの民と共にいたいと願っておられたのです。そしてそのためには、彼らは主に立ち帰り、悔い改めて、主を求める必要があったのです。
ここで「主を求める」とは単に、形だけ主を拝むということではありません。悪から離れて善を行い、公正と正義に生きることでもありました。