「終わりが来た」とエゼキエルは繰り返します。神はイスラエルが罪を犯し、神に背いて歩んでいたときにも、長く忍耐しておられました。本来でしたら、もうとっくに滅ぼされていたはずのイスラエルの民に対して、主は、悔い改めの招きをし続けてこられました。しかし、主の憐れみの上にあぐらをかくようにして、自分勝手な生き方をし続けるのは本当に恐ろしいことです。「終わりが来る」からです。悔い改めることが許されている間に、砕かれて主の御前に近づく者でありたいと思います。
裁きが臨もうとしていました。しかし、主の裁きは私たちに罰を与えて、j私たちの罪にふさわしい報いを受けさせようというのではありません。私たちが罰を受けたとしても、私たちの不従順の対価には足りないでしょう。主はどこまでも憐れみ深いお方です。そして、主はどこまでも私たちにご自身を知らせたいと願っておられるのです。