エゼキエル3章

人の子よ、私はあなたをイスラエルの家の見張りとした。私の口から言葉を聞いて、私からの警告を彼らに伝えよ。(17)

 主がエゼキエルを遣わされるのは、言葉の通じない外国人のところではありませんでした。同じ言葉を話すイスラエルの人たちに、共に捕囚に連れてこられた同胞たちに遣わされたのです。
 主はエゼキエルを見張り人として立てられました。見張り人は、危機が迫っているのを見たら、そのことを人々に伝え、警告を発しなければなりません。それがどんなに人々の聞きたくないメッセージであっても、声を上げ、それを伝えることが見張り人の務めなのです。もちろん、伝えたから、もう自分の責任は果たしたからね、と自己満足のためだけにメッセージを語るのではありません。神を愛し、神の御思いを伝えるのですし、また聞く人たちが何とか、そのメッセージを聞いて、悔い改め、主に立ち帰ることを願い、期待し、聞き手の人々を愛してメッセージを語るのです。聞いても聞かなくても語ります。でも、聞いても聞かなくてもよい、平気だということではありません。聞いて命を得てほしいと願いつつ語るのです。