エレミヤ8章

私の頭が水源であったなら
私の目が涙の泉であったなら
昼も夜も私は泣くであろ
娘であるわが民の刺し貫かれた者たちのために。(23)

 イスラエルの民は自分の罪深さに気づいて、それを認め、悔い改めるということがありませんでした。かえって、彼らは主に背き続け、人々を欺き続け、主に立ちかることを拒みました。それなのに、彼らは「自分たちは律法を与えられている」「自分たちには知恵がある」と語り、「我々は何ということをしたのだろうか」と自分の罪を嘆き悲しみ、悔い改めることをしませんでした。確かに主の裁きと滅びが迫っていました。
 しかし、エレミヤは、自分は正しいがお前達は間違っていると断罪し、愚かな民を嘲笑しながら裁きを告げているのではありません。エレミヤは民を愛しています。決して彼らが滅んだらいいと思っているわけではありません。しかし、それが避けられないほど、民の罪が深いことを知っているのです。そしてエレミヤはさめざめと涙を流します。迫り来る滅びを思うと悲しくて悲しくてたまらなかったのです。私たちは誰かのために泣くことがあるでしょうか。