確かにエルサレムの都は主が愛される町であり、その都にある主の神殿は、礼拝の中心でした。そして主はそこにご自身の名を置かれました。しかし、やがて、エルサレムの神殿があるから大丈夫と、礼拝が形骸化し、心が主から離れていく中で、主は神殿そのものが重要なのではないことを示されます。天地を造られた主は、神殿におさまるようなお方ではありません。主が求めておられるのは形ではなく、主の言葉の前に恐れおののき、へりくだって主の御前に砕かれて近づく者です。
主はエルサレムを見捨てられたのではありません。エルサレムを慰め、河のように豊かな平和を与えてくださるのです。イザヤは天地の創造者であり、イスラエルをエジプトから救い出してくださったお方が、やがて滅んでいくエルサレムの回復と共に、しもべとしてのメシアによる罪からの救いを語り、新天新地の創造による救いの完成について語ります。世界中の民が主を礼拝します。そして私たちもその中に加えられているのです。