主はエルサレムのために沈黙しないお方です。必ず救い出してくださるのです。4節にある「私の喜びは彼女にある」とはヘブル語でヘフツィバ、「夫を持つ者」とはベウラです。それは主によって裁かれ、荒廃するエルサレムが、再び主の喜びの中に置かれ、また選ばれた民が再びエルサレムに住むようになるという預言です。
罪を犯し、汚れきって滅んでいったエルサレムが再び神の喜びとなる。しかも花婿が花嫁を喜ぶようにと言われているように、大きな喜びとして受けとめられるようになるということは大きな驚きです。そしてこのエルサレムの姿は私たちの姿にも重なります。私たちは主を喜びます。しかし、それだけでなく、主が私たちを喜んでくださるということに、私たちは大きな喜びを感じます。そしてその主の喜びはやせ我慢や、義務感から出てくるようなものではなく、主の御思いの一番深いところから、湧き出るように出てくる大きな喜びです。そして主の喜びを見ながら私たちもまた喜ぶのです。