イスラエルの罪のゆえに、やがてエルサレムは廃墟となり、民はバビロンに捕囚として引いて行かれる。それはまさに迫り来る暗黒の時と言えます。その災いは主に背いたゆえにイスラエルが負わなければならない当然の報いでもありました。しかし、主はそのようなエルサレムに回復の時、再び主の栄光に輝く時を来たらせてくださる・・・イザヤは喜びと確信をもって語ります。主によって照らされて、今度はエルサレムが光を放つようにと呼びかけられているのです。
嘆きの日々を通ったとしても、エルサレムの太陽である主は沈むことなく、欠けることもないのです。嘆きの日は終わります。主がそれを終わらせてくださり、主の栄光によって照らされたエルサレムは喜びの中に輝きます。イザヤは主がもたらしてくださるすばらしい救いの日を思い見ながら語ります。そしてやがて、究極的には光である主イエスの来臨によってこの預言は実現するのです。